【推薦文集】
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  どんなに重い障害があっても、言葉は話せなくても、心はある。心が表情や身体の動きの引き金を引く。前作「普通に生きる」、その中で彼らは映像の中で、笑顔や泣き顔、身体の動きでその心をしっかり見せてくれた。そんな彼らの心の動きに引き付けられ、その心の動きに魅せられた人たちが、思いをくみ取り、取り上げ、障害のある人たち、家族、そして行動を起こした支援者(職員)、トライアングルで「普通に生き、そして普通に死ぬ」生活を生み出した。

 そのチャレンジを8年間撮り続け、私たちと同じ様に生き、そして死ぬ、その当たり前が可能な条件を見事に見せてくれた貞末監督、そして映画の中の人たち全員に大きな拍手を送ります。

  社会福祉法人 訪問の家 顧問 日浦美智江



気付きと感動の映画「感じる力」がもたらす前進

               公益社団法人家庭生活研究会 心理・発達相談室こぐま室長 田中公子

 東京都杉並区で1歳から就学前までの発達になんらかの躓きを持つお子さんととその家族を対象とした支援事業を行う「(公益社団法人)家庭生活研究会 心理・発達相談室こぐま」の室長を務めるのが、田中公子さんだ。)
 支援を行う事業者という立場を持つ田中さんは、「普通に死ぬ
〜いのちの自立〜」を観て、様々な気付きがあったという。

映画の内容に励まされ、気付きも与えられた

・・・・・本作をご覧になった感想は?
「重い障がいを持ち、医療的ケアを必要とする人とその家族を懸命に支えようと奮闘するグループホームのスタッフの姿を見て、とても励まされました。運営側が安定した道を選びがちなのは私自身わからなくもないのですが、『事業者として本来の理念に立ち戻って考え直してみよう』という議論が本気で真剣に繰り広げられる場面でハッとさせられました。。自らの生き
方を問われているようで、『もう少し頑張ってみよう』と背中を押されたような感じを抱きましたね」

・・・・・「背中を押された」というのは、具体的にどういうことですか。
「私が働く児童発達支援事業所でも、今まさに大きな問題を抱えています。この映画は、私自身、その問題に対し『もう諦めよう。』と逃げ道を探しかけていた時期とも重なり、『本気でやれることはやったのか?』という気付きを与えてくれました。問題は違いますが、障がいのある人や家族との出会いはもちろん、事業者同士の様々な出会いも困難な状況を乗り越えていく勇気と希望を生み、周囲の人々を動かすうねりになる。映画の中で描かれるその様子に胸を打たれました」

「普通の人間関係」で生まれる「感じる力」

・・・・・本作は、重い障がいを持つ人が年を重ね、支える家族が病に倒れ、苦難に直面する有様が主題となっています。
「彼らを懸命にサポートするグループホームのスタッフを含め、この映画に登場する人々皆が、過酷な状況に置かれても共に支え合い、『普通に生きる』ことを守り抜こうとする姿に心を揺さぶられました。」

・・・・・特に心に残った場面はありますか?
「娘の葬儀に多くの人が駆けつけてくれたことに感動した父親が『障がいを持っていても、笑顔ひとつでこれだけ多くの人を動かせるんだ』と語る場面がありますよね。障がいの有無に関わらず、支援する人、される人の関係性でもなく、人と人との普通の関係の中で自然と湧き起こる『感じる力』が、相互に呼応して心を震わされた時に大きな力が生まれるのだと胸が熱くなりました」

相互の「感じる力」が大きな変化の源に

・・・・・相互の「感じる力」が変化をもたらす?
「そうですね。重い障害を持つ人の自立ってどういうことなのか、それはその人、その人が持つ『感じる力』の中に有るのではないか、そして人と人の相互の『感じる力』が大きな力となり、世の中に変化をもたらせていくのだと思います。」

・・・・・田中さんご自身にとっての「感じる力」とは。
「私自身、若い頃より経験を積んだ分だけ今の方が『感じる力』が豊かになっているような気がします。映画の中で、かつては『子どもが亡くなるのを見届けてから死にたい』と話していた家族が年を取った親が先に死ぬことを普通のこととして受け入れていく話が出てきますよね」

・・・・・年を取り経験を重ねて、考えが変わったということでしょうか。
「その家族が過去にどれほど眠れぬ夜を過ごし、つらく悲しい思いをしたのだろうと思うと胸がいっぱいになります。しかし一方で、重い障害のある子であっても、子育ての中にある普通の喜びや楽しみもたくさん経験したからこその変化だと思うんです。そういう家族の姿に、私は子供を育てた同じ親としてちょっと嬉しく『お互い頑張ったね。』とエールを送りたいのです。」

    (
インタビュアー:花田優子)

   


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 「普通に生きる」の続編ができると聞いてから8年。貞末さんには申し訳ないのですが、一時は完成しないのではないかと思っていました。映画の舞台になった施設を立ち上げ、「普通に生きる」ことを熱く語っておられた所長さんが、辞められたことを聞いたからです。そんな大変な中での映画作りなど無理に違いないと思っていました。2月に完成を知って驚き、試写を見て圧倒されました。その時は、自身の障害者支援の活動に重ね合わせ、職員にぜひみてもらいたいとそればかりを考えていました。

 7月15日、新型コロナ禍の中、感染予防と密を避けての職員限定の上映会を開きました。2時間があっという間という声、私の思惑通りいやそれ以上に職員は感動しました。 
  施設の理念をめぐっての厳しいやり取り、お子さんを亡くされたご夫婦。末期がんで子どもを置いて亡くなられる親御さん。きょうだいとして育った苦しみ、どのシーンにも嘘もあいまいさもありません。厳しく迫ってきます。苦しさも伴います。それでも見終わった時、温かい拍手がわきました。

 なぜ、貞末さんはこのような映画が作れたのでしょうか。8年もの間、撮り続けられた原動力は何なのでしょうか。考えました。映画の中で、青葉園 元園長の清水さんが、(障害のある人と)一緒にいるということは「生きている時間を呼応すること」といわれます。貞末さんもこの映画を当事者や家族の皆さんと呼応することで作られたのではないでしょうか。だから、途中でやめることなどできなかったのではないでしょうか。

 私は貞末さんが、この映画を作ってくださったことに心から感謝します。多くの方に、見ていただきたいと強く願います。

   2020年7月21日

  特定非営利活動法人療育ねっとわーく川崎 谷 みどり


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 日々を生きる人々の記録は圧倒的に、そのむき出しの姿を突き付けるが、同時に、人は等しく普通であるという真実が、柔らかく画面を潤していく。介助されて生きることが普通なのか、と心に思う、もしくは漠然と意識下に持つ人たちが、「生きるという、すべてに等しい営みはみな普通なのだ」と、はたと見出せるような、そういう映画だと思う。 障害のある人々には、法律・制度はこうあるべき、といういままでの「常識」が、実は、普通に生き、親を送り、普通に死ぬという、当たり前のいのちの営みを邪魔してきたのではあるまいか。画面が語る「普通の常識」は、個のいのちに個のいのちがからみあうということにほかならず、制度・組織を超えて、この普通の常識を選択した人々の潔さこそが、観る側の心に迫ってくる感動の源なのだ。

 翠朋流煎茶 矢野朋生


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誰もが「普通に生き、死ぬ」ことの意味      ライター 花田優子

 生きとし生けるものがいずれ死を迎えるのは当然の理だ。では「生きる権利」、それと表裏一体である「死ぬ権利」は、今この日本で誰もが等しく尊重され保障されうるものとなっているだろうか。
 本作では「医療的ケア」を必要とする重い障がいを持つ子と、彼らの在宅生活や地域での生活を中心となって支える母親が共に生き、歳を重ねた先に待つ過酷な現実が映し出される。
 観る者に突き付けられるのは、介護を必要とする人の中心的介護者が病に伏した時、被介護者・介護者の双方が「自立して普通に生きる権利」「普通に死ぬ権利」は守られるのか、いったい誰が守るとよいのか、という切実な問いだ。そして八方塞がりに見える現実に差す光−−「共に生きる」「支え合う」ために必要な「気付き」の重要さが提示される。
 多様性が叫ばれる一方で混沌とする社会を前進させる“導き”が、本作には丁寧に真摯に示されている。私は慟哭した。


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新作ドキュメンタリー映画
「普通に死ぬ 〜いのちつなげて〜」を観た  キャラバン隊美術部 御殿谷教子


ドキュメンタリー映画ですが、映画を観ているのに
無言の問いかけや、無言の確認が画面の向こうから
何度も何度もやってきます。
映画鑑賞=受動 ⇔ 貞末作品=能動の促し ←ここに
監督、貞末麻哉子がむんむん薫る(笑)。
全編を見終わって、脳内で数日反芻して、
あ?あのシーンはあそこの布石か。
あ、あのシーンはあそこと呼応か。と、わかってくる。
ちょっとした推理小説な赴き(笑)。
母(ケアラー)が病に倒れると
入院か施設入所になってしまう医ケア者の実情
経済という錦を纏った正論がそこを曲がれ、
進め、止まれ、そして、そこに収まれ。と幅を利かせる。
経済と正論の前で人々は思考を停止してしまったように
正論に従い、ベルトコンベアに乗せられたように、
正論が推し出す「枠」の中にはめ込まれていきます。
枠は「その人に添った形」ではなく、
経済の正論側が運用しやすい形で、
その枠からはみ出してしまっても、
経済の正論側に組み敷かれた者の目や耳には
見えてはいるが見ない。聞こえてはいるが聞かない。
受動と能動。
膨大な情報が満載の本作品だが、「イクちゃん」という
笑顔の少年を水先案内人に鑑賞者を当事者として考え
感じさせる。←ニクイ(笑)
「イクちゃん」はよく笑ってくれる。
愛おしい笑顔を投げかけてくれる「イクちゃん」の
新たな人生。正論は「その人」、唯一無二の「個人」
ではなく、正論で「収まる」人を作る。
正論は、簡単に人を絶望の淵にはめこむのだ。と、
充足と絶望のコントラストを見事にあらわしてゆく。
他人事ではなく、明日の私でもある程の「身近さ」に、
それら正論(絶望)は存在しているのだ。と見せつけらる。
言葉を持たない人の笑顔と叫びと、そして笑顔。
叫びのまま、絶望の中に閉じ籠られた、
閉じ籠られている人々は、一体どれだけいるのだろう、と。
そして見えているけど見ないように、聞こえているけど
聞かずに毎日を過ごす心も、やはり経済の正論の被害者だ。
映画は、絶望の中に沈み込もうとしている人を
「正論からは逸脱の人」、でら〜と設立代表者の
小沢映子さんや、
でら〜と元副所長の坂口えみ子さんが、
こんな考え方、こんなルートはどうか?!と、
別の道を歩いてみることを見せてくれる。
また、兵庫県伊丹市の有限会社しぇあーど運営の施設、
こうのいけスペースしぇあーどでは
異端の人、李国本修慈さんを紹介してくれる。
ここには母亡きあとしぇあーどの2階で暮らしている
重度障害の人がいる。週の数日を自宅で暮らし、
土曜日の夕方にしぇあーどに戻ってくる人がいる。
この異端の人、李国本修慈さんが尊敬する
異能の人、元青葉園園長の清水明彦さんが強烈だ。
この方々のくだりは是非、映画で確認して頂きたい。
超すごい。震える。
感じる心と芸術は直結していると確信する。
そして。
高みから見ている=映画鑑賞者である「私」はどうだ?と、
自分を、自分の概念を照らし直させられる。


その人らしく生きてその人らしく死ぬ。
                 ◇

この映画はガチガチに固まった既成概念や
正論に縛られ、身動きしづらくなっている私たちに、
新しい考え方を提示してくれる希望の作品だった。