「伝承」というタイトルを掲げ、意気揚々と撮影の旅に出たのは1986年の8月。あれからもう十年の時が流れた。当初は、サウンド・プレイクの様な、軽いタッチの作品を考えていたため、特に台本も用意していなかった。ラダック(西チベット)の美しくも過酷な自然、ひっそりと息づく人々の生活や習慣、そして人々が心の拠りとするラマ教の美術などを出来るだけ美しい映像で捉え、オリジナルの素敵な音楽と共に、流れるような作品を創りたい.それは、言葉を使わず、映像と音の協演により、世界中の人々、特に古くから受け継がれていた人間的な生活スタイルをどこかに忘れて来てしまった先進国の人々に、その忘れ物の大切さに気づいて貰えるような作品を目指していた。
タイのパンコク経由でネパールのカトマンドゥヘ入った我々は、ラダックヘの準備を進めながら体調を整えた。現地では電気の供給はほとんど期待できない。プリキの板でローソクの光を効率よく反射させる照明器具を作ったり、レフ板代わりに白いシーツを買い込んだり。そして、ネパールの友人に、通訳・コーディネーター兼撮影助手として同行を頼む。日本人4名とネパール人l名の撮影隊は、雨の降る中カトマンドウから陸路インドのゴラクプールへ出発した。バスを降りると屋根に積んであったバックが一つ足りない。幸いスタツフの着替えを失っただけで済んだが、やはりインドはネパールとは違うようだ。気を引き締めて駅へ向かうとジーパンとTシャツの若僧達に駅員は冷たい。荷物を気にしながらやっとの思いでチケットを手に入れる。デリーまでの夜行列車では夜通し交代で荷物番をした。デリーからカシミールのスリナカルまでは飛行機で飛んだ。
カシミールへ入った我々は、綺麗な湖に浮かぶハウス・ポートに宿を取り数日休んだ。ここスリナガルのダル湖では、緑豊かな自然の中で時はゆっくりと流れていた。どたぱたの内に日本を出国したため、カメラテストもろくにしていなかったので、機材のチェックも兼ねて、カメラを回してみる。電動のアリフレックス16mmカメラとズームレンズ1本に、電源対策に持ってきたセンマイ式のボレックス16mmカメラ。2台のカメラのレンズマウントが違うため、ボレックスにはアダプターを使い、キヤノンの一眼レフ用のレンズを使う。ところが、ボレックスのピントが合わない。近景は良いが、アダプターが長すぎて無限遠の焦点を結べないのだ.スリナガルの町を探し回り、親切なカメラ屋のおじさんを見つけた。分解し、旋盤で削ってもらう.助かった。言われた金額を支払い、御礼に予備のドライパーセットを上げた。これで機材はOK.美しい蓮花の映像などを撮りながら映画の構想を練り始めた。
ダル湖には、浮島がいくつかあり、また、あちらこちらの浅瀬から木が生え出ていて、いくつもの水路を作っている。これから向かうラダックの荒涼とした大地とは好対照だ.シカラという小型ボートの先端に乗り出して、水面ぎりぎりでカメラを構える。水路を抜け空が丸く開けたところに、美しい蓮の畑があった。そうこうするうちに、我々の中に欲が出てきた。せっかくここまで来たのだから、もっと内容の濃いものにしたい。監督は絵コンテを描き始め、イメージはどんどん膨らんだ。我々は、サメの歯の様なヒマラヤ山脈を越え、ラダックの首都レーへ向かった。
雪山を越えると乾いた大地が広がっていた。レーの町は標高3,500m。着いて直ぐは高山病に注意しなくては.スタッフ全員、1過間の禁酒禁煙、走らないことを守った。ホテルを決めて周りを紋策してみる.町の背後の岩山には、廃虚となったレーの王宮が、かつての面影を残している.岩山に囲まれた茶褐色の大地を流れる一本のきらめく筋は、インダス河の源流だ。その筋に沿って所々に緑が広がっている。向い側の岩山の上には、白い書山がそびえている.夜になり空を見上げると、そこは信じられないぐらいの星々で覆われていた。ラダックではつかの間の夏の夜、屋上で寝る人が多い。満天の星空に抱かれて見る夢は、どこまで飛んで行くのだろう.足場の悪い道も、満月の夜は懐中電灯無しで十分歩けた。ところで気になるのは電気だ。当時レーでは町を二分して一日おきに三、四時間供給されていた.この僅かな時問帯に、バッテリーを充電した。電気のない夜は、オイルランプとローソクの生活が続いた。
監督は一連のストーリーを想い描いていた.役者を使いたい。レーの学校の演劇部で、気に入った少年と双子の姉妹を見つけた。ラマ教の世界では、男の子が何人か生まれると、その内の一人か二人を、僧として寺に預ける。これは厚い信仰と、苦しい生活から生まれた習慣だろう.監督は、そんな少年僧の一人が、別れた母親を求めて巡礼の旅に出て、その途中色々な経険をしながら、いつしか曼陀羅の世界へ入って行く、という物語を考えていた.
体も慣れ、徐々に撮影を始める。慣れて来ると、走っても頭痛がしたり、気持ちが悪くなったりすることはないが、直ぐに息切れしてしまう。東京なら一息で登れるような階段も、途中で休むようだ。ジーブをチヤーターし、ゴンパ(ラマ教のお寺)を廻りながら撮影を進める。ジープで走っていると、時折深い渓谷に出会う。そこでは、茶褐色の岩肌と、インダス河の鮮やかなエメラルド・グリーンが、美しいコントラストを描いていた.そんな、一見平和そうなラマ教の世界も、直ぐ東側には中国との国境が迫っている。こんな山奥で、国道が比較的綺麗に舗装されているのは、軍需道路のためだ。町から少し離れた国道沿いには、所々にインド軍のキヤンブがあった。ジープで移動するしかない当地では、チヤーターする回数が増えて来ると、かなり予算にひびいた。レーにある日本山妙法寺の住職には、時々ジープを貸してもらい大変助かった。但し、滞在中、時折お寺で経文(南無妙法蓮華経)を唱えることになった。
ゴンパの繊影では、レーにあるラマ教センターの僧侶に、紹介状を書いて戴けたので、好意的に接して貰えたところが多かったが、ちようどNHKの取材があってそれほど間がなかったせいか、寺によってはお金を要求され録影出来なかったところもあり、とても残念だった.曼陀羅のシーンの多くは、アルチ・ゴンパで撮影されたものだ。そこには、映画の最初と最後に出てくる我々が天界の門と呼んでいる、美しい彫刻の施された門がある.暗いお堂の中は、外に置いた白いシーツのレフ板では光量不足、フラッシュや電灯などは使用禁止だ.僧侶と交渉し、オイル・ランプの使用を許可して貰う。また、大きなゴンパの、集団で説経する僧侶達とは対照的に、小さなゴンパでは、一人の僧侶が静かに祈りを捧げていた。女僧だけのゴンパにいた、百才を越えるという老僧の顔は、特に印象的だった。
当時、監督は象徴的なシーンの挿入を考えていた.演劇部のあるレーの学校の生徒さん達に頼み、学校裏の広場で三角形に並んで走ってもらう。監督は、その三角形の形を保ったまま走ることを求めたが、岩や窪みが無数にある斜面では、ナチスの兵隊でも難しいだろう。この他にも、子供逮が規則的な動きをするシーンをいくつも撮影したが、最後の編集で監督が使ったのは、エピローグのところで三角形の形を崩しながら走って行くラダックの子供達のシーンだけだった.彼らはナチスのロボットの様な兵隊とは違い、人間性豊かな個性を持った一人一人の人間だ.彼らが三角形の形を崩してこそ自然に思う。監督が、象徴的な幾何学図形を崩して行くラダックの子供達のシーンだけを選び、他の規則的シーンを捨てたことに、この間に起きた彼の内面的変化を強く感じる.ところで、この三角形の子供達の走りのシーンを撮影するため、庭師のアルバイト経験のある監督は、彼らが良く使う梯子に似た撮影台を考案した.提影当日、我々はラダックでは貴重な材木を手に入れて3本足の大きな櫓を組み立てた。
アムチというチペットの伝統医学の継承者は、少年僧が持っている絵地図と自分の絵地図を照合しながら、進むぺき道の助言を与える。このアムチの撮影の時に、たまたま・来ていた患者さんの治療風景を撮影させてもらえた。色々な治療方法があるようだが、このアムチは焼き鏝で患部(或いは、つぽ)を焼いた。双子の姉妹が貝の音を聞くシーンでは、二人のスタッフが何度か見本演技をして見せて、それを真似てもらった。また、あいた時間にネパール人のスタッフが凧を作ったのがきっかけで、少年僧に色々な凧を背負わすことになった.円くなって子供をあやしている母親達を見つけ、羨ましそうに少年僧が近づくと消えてしまう.母を思う気持ちが見せた、幻のシーンだ。ゼンマイ式のポレックスは、オーパーラップの他にコマ撮りも出来る。特に撮影予定のない、良さそうな雲が出て来た日に、ホテルの屋上に上がり雲の流れを撮影した。タルチョウに書かれた経文が、風に流され天へと登って行くシーンは、無数の鮮やかな布や色褪せた布がはためく、タ日の美しい映像で捉えた.(このシーンは、後に「風の章」として煮詰まって行った。)
三ケ月ほどの滞在中、色々な方々の協力のもと、四苦八苦しながら撮影を続けたが、思い通りの映像はなかなか撮れなかった。日常会話がやっと通じる程度のやり取りで、細かな演出をするには、かなりの無理があった。ラダックに雪が降り始め、空港閉鎖直前に、不満を残しつつもレーの町を後にした。
カトマンドゥに戻った我々は、ラダックとカシミールだけで纏める計画を変更し、ストーリーも変えながら撮影を関始した。監督は、まだ少年僧の巡礼のストーリーを捨てきれずにいたが、一方ては、仏教の五大元素と言われる、地、水、火、風、空、を映像的に表現する構想を、真剣に考え始めていた.数百個の手作りデユア(パターランプ)を、多くの友人の助けを借りて、ボードナートとスワイヤンプナートという、ネパールの二大仏塔に並ぺて撮影した.ポードナートでは、その広い基壇に抽象的な下絵を描きデュアを並ぺ、日没直後の薄暮の時間帯に撮影した.モンキーテンプルと呼ぱれるスワイヤンプナートでは、大勢の猿達と戦いながら、山頂の仏塔へと伸びる階段にデユアを並べた。(この様なデユアのシーンのイメージは、後に「火の章」として煮詰まって行った.)
ボードナートやスワイヤンブナートの寺院では、読経の撮影も行った。ネパール、特にボードナート周辺の骨董屋(土産物屋)にはカラスの御面が、数多く売られていた。監督はそれをいくつか購入し、ネパールの少年僧に被らせ、ラダックの少年僧と対比させた.ボードナートの寺院には、多くの少年僧がいて、彼らに頼んで、仏塔の基壇上を列を作って歩いて貰い撮影した。
そうこうする内に資金が尽き、帰国を余儀なくされた.1987年2月、我々は無念の内に帰路に就いたが、その途中タイで、最年少のスタッフを交通事故で失った。我々はどん底に落とされた。
しかし、その後も監督は、紆余曲折しながらも、資金を捻出して、再撮、再編集を繰り返し、夢を追い続けた。単なるサウンド・プレイクではなく、少年僧の巡礼というストーリーを思い描いた時、監督はこの映画を見る観客の視線を意識し過ぎていた。この映画でなんとか成功したい。その為には親客にとって、ある程度見易い、分かり易いものにしなければならない.そこてストーリーを考え出し、素人の役者さんに演技を頼んだ。しかし、それは監督の満足出来るものにはならなかった。彼が、具体的なストーリーを捨てたとき、それぞれのシーンの中にあった印象的な映像は、「伝承」という映画のパーツとして生き生きと甦ったように思う.
1992年2月8日、渡辺監督は心不全のため他界.その枕元の編集台に残されていたフイルムには、かつて抱いていたような欲は無く、当初思い描いていた様に、大切な忘れ物に気づかせてくれるような、素敵な映画になっていた。彼は夢を果たし、我々の元を去つた。
カメラマンとして第一次撮影に参加 建築写真家 鈴木正見