韓国の米軍基地問題と、その問題に取り組んでいる人たちを撮った映画「梅香里
(メヒャンニ)」というドキュメンタリー映画の制作上映運動に、湯布院の仲間たちや西山正啓監督とともに取り組んでいます。
なぜ湯布院に住んでいる私たちがこの映画「梅香里」の製作上映運動に取り組むこ とになったのか、その経緯を報告させていただくとともに、ぜひ皆さんにも、この
「梅香里」上映運動へのご支援、ご協力をお願いしたいと思います。
この映画を撮った西山監督は、「ゆんたんざ沖縄」「しがらきから吹いてくる風」 「水からの速達」など多数の作品をこれまで手がけてきています。私は監督と、第一
回目の「ゆふいん文化・記録映画祭」のパーティで偶然再会することになり、お互い にびっくりしました。
実は、十六年前、私が東京に住んでいた頃に、地域で監督の映画「おもしろ学校の一日」の上映運動に取り組んだことがあり、その時にお世話になったことがあったか
らです。
現在は、福岡にお住まいということで、湯布院から近いので文化・記録映画祭や、 日出生台の運動にもいろいろご協力いただいて、昨年の9月には、私たち湯布院の仲間たちとともに韓国を訪問、その後この映画の制作へと発展しました。
■日出生台に米軍が演習にやってきた
私が東京から湯布院に住むようになって8年になります。湯布院は観光地であり、町づくりや、映画祭で世に知られていますが、西日本で最大の軍事演習場を抱えてい
る基地の町だということはあまり知られていません。私自身も米海兵隊の実弾砲撃演習の移転の話が持ち上がるまで、日出生台演習場が、演習場にされて100年もたつこ
と。朝鮮戦争あった1946年から11年、米軍が駐留していて、女性に対する性暴力や放火など数々の凶悪事件がこの町でも頻発していたことなど、全く知りませんでした。
日出生台には、私も野草を摘みに行ったりしたことはあったのですが、風景や野の花の美しさとはうらはらに戦争につながっているような軍事演習に拒否感があり、まれにしか訪れることがありませんでした。
米軍の実弾砲撃演習の計画が持ち上がった5年前、町を揚げての移転反対運動が盛り上がっていた時期、移り住んで来て間もない私は、運動の中で自分にできる雑用や、人がたくさんいた方がいい時に参加する程度の関わりでした。町内での大きな動きを作るのは、それに向いた人たちがたくさんいましたし、私自身は、1956年まで日出生台に駐留していた米軍が移っていった先、沖縄が抱える問題をきちっと受け止め、その問題に力をそそぎたいと思っていましたので、沖縄との関わりの視点からの取り組みを考えました。湯布院で女性のネットワークを立ち上げ、那覇市議の高里鈴代さんを招いて講演会を企画したり、反戦地主の方たちのシンポジウムを開いたりしましのもこの頃です。
■沖縄との交流
この問題をきっかけに、沖縄をひんぱんに訪れるようになり、沖縄の人たちの魅力 や音楽、文化のすばらしさにぐんぐんひかれていきました。
知れば知るほど、米軍基地や軍隊という最も暴力的なものと隣り合わせの生活を余儀なくされてきた沖縄の人たちのねばり強い運動や考え方からいろんなことを学ばせてもらいました。
97年と98年には、沖縄の人たちや全国で米軍基地問題に取り組んでいる仲間たちと協力して、ニューヨークタイムスに米海兵隊の日本からの撤退を求める意見広告を二回掲載することができました。この運動を通してアメリカ市民の理解と協力を得ること、そして国内だけでなく、海外の人たちとも協力のネットワークを作ることの大切さを実感しました。
二回目の意見広告の真っ最中、今から四年前ですが、高里鈴代さんら沖縄の女性たちに誘われて、在日米軍基地があることで住民たちがいかに命と暮らしを脅かされてきたかを訴えるためのアメリカピースキャラバンに参加することになりました。
アメリカでは暴力や軍隊がない平和な世界を目指すための国際的女性のネットワークを作るための会議が開かれ、私が「梅香里」という地名を初めて聞いたのは、その会議の中でした。
■チョン・ユジンさんとの最初の出会い
韓国の参加者から駐韓米軍による被害の報告があり、その一つに米軍の射爆場にされ陸と空からのものすごいアメリカ空軍機の爆撃によって、一つの島があとかたもなくなくなるほどの環境破壊、想像を絶する騒音、誤爆事故など、すさまじい被害を受けている梅香里の状況を初めて知りました。
平和な世界をつくっていきたいという共通の目的をもって行動している人たちと国を越えて草の根の連帯、交流をしていきたいと、会議の後、話しかけたのが駐韓米軍犯罪根絶運動本部のチョン・ユジンさんでした。私はユジンさんに、近いうちに仲間たちとぜひ韓国を訪ねたいと伝え、彼女もぜひ来てほしいといってくれました。
■日出生台から八名で訪韓。梅香里視察
同年(九八年)の十一月、日出生台の周辺住民八名とともに私は初めて韓国を訪問しました。ユジンさんとホテルで待ち合わせして、ソウルにある米軍基地や梅香里の射爆場を案内してもらい、現地で孤立無援の中で闘っているチョン・マンギュさんを紹介してもらうことができました。
実際に自分の目で見た梅香里の風景は、海岸に落ちている模擬弾や不発弾、上空を飛び射撃する米軍機と、まるで戦場のようでした。この訪問を契機にして、その後の日出生台と韓国民衆との草の根交流が始まりました。沖縄の人たちはその前から韓国の人たちと交流を始めていましたが、韓国に一番近い九州し住んでいる私たちも交流を深めていく必要性を強く感じていましたし、湯布院の仲間たちは友達をつくることを最も得意としているので、理屈抜きで交流を楽しんでいます。
■昨年(2001年)九月、西山監督とともに五人で訪韓
そして今回の映画作りのきっかけになったのは、昨年の九月の韓国訪問でした。参加したのは、ローカルNETのメンバー五人と西山正啓監督。監督とは、ゆふいん文化・記録映画祭が縁で、この頃、行動をともにするようになっていました。二年ぶりに訪ねた梅香里では、私たちが最初に訪問した後に大変な誤爆事故が起きたりして、米軍に対する反対運動が大きく盛り上がっていました。梅香里の住民の方たちとも交流ができ、本当に心温まるもてなしを受けました。チョンマンギュウさんは前回の訪問の時に住んでいた自分の家屋を売り払って公民館で暮らしていました。
この訪問をきっかけにして、西山監督は映画製作のための取材活動に入りました。韓国を訪問したメンバーを中心に湯布院で「梅香里」制作上映委員会も立ち上げることになりました。
梅香里の射爆場には、沖縄を含むアジアのすべての米軍基地から爆撃機が飛来するといいます。米軍は国境を越えて、戦略をたて、展開しています。これに対抗しようとする私たち民衆の側が、国境という枠組みにとらわれているわけにいきません。軍事基地や軍隊、暴力のない平和な世界をともにつくっていくため、国境を越えて草の根の力を紡いでいくことの重要性を強く感じています。
これまでの韓国との民衆レベルでのつながりも、沖縄の女性たちとの出会いがなければなかったと思いますし、第一回目の訪韓時に同行通訳をしてくれた黄さんや今回の企画にも参加してくれる韓国に住む桑江君、そしていつも惜しみなく協力をしてくれた大阪の都さんの助けなしにはこのような展開もなかっただろうと感謝するとともに、なにか不思議な感慨を持っています。
海を越えた日韓の不思議な縁によって出来上がったドキュメンタリー映画「梅香里」を、西山監督とともに、今後、全国で上映していきたいと思っています。
今後上映運動を展開する中で、韓国語版、英語版の作成を目指しています。そして、この上映運動を通じて、韓国、アメリカそして米軍基地を抱える多くの国々の人たちと思いを共有したいと思います。
まだ始まったばかりの映画梅香里の上映運動ですが、このような映画の上映運動というものに初めて関わってみて、この運動は人と人との出会いを作り、それを紡いでいく力を持っていることを実感し始めています。
今後とも、皆さんのご協力をどうかよろしくお願いいたします。
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<湯布院と韓国との草の根交流の経緯>
■98年10月、アメリカでの「国際女性ネットワーク会議」で松村がチョン・ユジンさんに会い、韓国の状況を聞き、ショックを受ける。
■98年11月、日出生台周辺住民8人で韓国・梅香里を初訪問視察。
■99年2月の日出生台での第一回米軍演習。
「わが土地取り戻し全国共同対策委員会」のキム・ヨンハンさん、
「米軍犯罪根絶運動本部」キム・ドンシンさんの報告。
■2000年2月の日出生台での第二回米軍演習。
韓国・梅香里からチョン・マンギュ氏を招いて現地報告。
■2000年2月17日、湯布院から山崎康成さんが韓国で開かれた
「満月まつり報告会」に沖縄の人たちとともに出席。
■2000年4月、韓国米軍犯罪根絶運動本部の事務局からオウ・ジンナさん、イ・ソウヒさん、秋緒さん、梅香里でドキュメンタリーを撮っているコアン・ウォンソク君が日出生台に視察交流に訪れる。
■2000年6月、沖縄での「国際女性ネットワーク会議」で、湯布院 ひまわりの会3名がチョン・ユジンさんキム・ドンシンさんらと再会
■2000年8月、梅香里でウオンソク君とともにドキュメンタリーを撮っているチョウ・チヘさんがドキュメンタリービデオ
「梅香里米軍国際爆撃場閉鎖のための闘争速報」を持って湯布院を訪れ上映、報告。
■2001年9月、西山監督と日出生台周辺住民3名が韓国、梅香里を視察、現地の住民の方々と交流する。これを機に、西山監督が映画「梅香里」の取材活動に入る。
■2002年5月、映画「梅香里」完成