西山
皆さんどうもありがとうございました。
ドキュメンタリーというのは、自分で撮っててもいつも感じるんですが、思わぬ事が起きることがあるんです。最後のあの通りかかりのおばちゃんなんか本当にそうですね。劇映画のシナリオライターでもああいうシナリオは書けないと思います(笑い)。思いがけぬことがそこで起きてしまうことがあるんですね。
で、ああいうおばちゃんが出てくることによって韓国社会っていうものが垣間見えるんですね。あのおばちゃんは、「どうぞ私のようにチマチョゴリ(韓服)を着て下さい」とチョン・マンギュさんに言うときに、ほんとは「ビーグンのスーツなんて着ないでください」って言ってるんです(笑い)。アメリカのことを美軍(ビーグン)っていうんです。中国も韓国も米軍のことを漢字で書くと美しい軍と書くわけです。つまり美しい国が実はアメリカなんです。日本の植民地から解放してくれた国っていうことです。あのおばちゃんはそういうことを言っているんですね。ああいう人が出てくれることによってとっても場面が豊になってしまうということがあります。
それと最後に干潟で撮影していますが、あの干潟にカメラを持って出るということはどういうことかというと、監視所があって監視されているわけです。で、僕たちはチョン・マンギュさんと一緒に胴長をはいて、冬ですからオーバーに近いものでカメラを隠して、漁民にはとてもなれないのだけれども、漁民のような格好をして、とにかく後ろは振り向かないでくれと言われて、スタスタ歩いて行くわけです。というのは、ちょうど僕らが撮影に行く一ヶ月前くらいに、フランスの特派員が捕まっているんです。うまく入って(撮影を終えて)帰ってきたときに拘束されて、フィルムを全部抜かれているんです。僕らも、撮影はできても最後にフィルムを抜かれてしまうと元も子もないんですよね。ということなど、まぁ撮影のエピソードを話すと、韓国の中の国軍と米軍を相手にして、どうやったら相手の裏をかくかってことばかりやってましたね。
実は、外国から取材や観光客がくると、米軍は訓練を中止するんです。チョン・マンギュさんの電話はすべて盗聴されていて、わざわざ電話をかけてきたりもするんですね。こちらの動きが読まれている。だから、本当は、チョン・マンギュさんは、訓練を中止させるために運動をやっているのにもかかわらず、その裏をどうかいて、こちらは訓練をしているところをどうやって撮影するかという風におかしなことばっかりやっていたわけです(笑い)。向こうの公安ににらまれながら撮影してました。
そしてあの干潟は、いつもは爆撃戦闘機が飛びかっている所なんです。しかも僕らがあまり入れないあの干潟に、渡り鳥が飛んでいる映像が撮れたのは、とても恵まれたことでしたね。あとでチョン・マンギュさんがあの映画を湯布院でご覧になったときに、あの最後のシーンを観て、お酒を飲みながらでしたが、「自分たちが本当に求めていることはあのことなんです」と彼は言ってくれたんですね。「戦闘機が飛ぶんではなくて、鳥が飛んでいるここの営みこそが、実は自分たちの求めていることなんです」という風に語ってくれました。
僕らは撮れたものを素材にしてこういうかたちにして映画にしたわけなんですけど、チョン・マンギュさんたちにとっては自分たちが生存権・生活権を賭けてやっていることはこういうことなんです、と言われると、一緒に足を運んでこの出来事を共有していったことが報われたという思いがしました。
実はこの映画を、僕は沖縄で一番最初に上映したいということで、7月から動いて、(宜野湾市にある)佐喜眞美術館で試写会をしたんですが、ちょうど普天間基地にどんどんヘリコプターが帰ってくる時間と重なったんですね。つまり外で爆音がしてるわけです。映画のなかのこの音とシンクロするんですよね。で、そういう試写会が終わった後に、沖縄の方々が口々に言うのは、自分たちの個人的な体験を言ってくれるんです。いま観た韓国で起きていることは、実は自分がかかわった沖縄の状況とそっくりだということが、自分の個人史・沖縄の体験と照らしあわせながら観ているということが解ったんですね。
で、佐敷町で上映会をやったときに、辺野古から「海を守る会」のたくさんのおばあたちが炎天下の中を来てくれたんです。で、辺野古のおばあたちは、干潟の貝を食べるシーンなんかでざわざわとざわめくんですね。で、僕らも観ててとても食べてみたいという気になるんですけど、おばあとかおじいとかが盛り上がるのは、辺野古のおじいとかおばあたちはうみんちゅなんですね。海のすぐそばで育って、そこがまたヘリポート基地に変わろうとしている境遇にある人たちが、この画面を通して見ながらざわめいているんです。つまりそれはいろんな複雑な気持ちもあるでしょうが、同じことが韓国で起こっていて、同じような人たちがいるんだという、同じ気持ちを共有できるということで感情表現されたんではないかなと、そういう僕が個人的に思うわけなんです。
で、今回沖縄の上映会に韓国からチョン・ユジンさんが来てくださるということで、何度か試写会をしたんですが、高里さんはちょうど市議選の真っ最中だったので、僕がビデオを持って選挙事務所に訪ねて行って観ていただいたわけです。で、上映当日も高里さんは当選して、たしか一週間も経っていなかったと思うんですが、遅くなって駆けつけて下さったんですが、その沖縄の人たちがチョン・ユジンさんを見つめる眼差しがとても温かいんですね。これはもう信頼以外のなにものでもないんです。僕なんかが高里さんを見ていると、自分の娘を見ているようなまなざしでチョン・ユジンさんに対しておられるんですね。それほどチョン・ユジンさんが沖縄から学んだことは大きいんだと思います。
僕は、チョン・ユジンさんが沖縄に留学されているということは知ってたんですが、ついに沖縄で出会うことはなかったんです。で、先に韓国に行って、まだ28歳のキム・ドンシンさんなど、チョン・ユジンさんの後輩にあたる人たちと先に会ったわけです。
で、そういう女性たちが語る言葉の一語一語に、僕は目からうろこが落ちるような気持ちで聞いていました。彼女たちはいったいどういう出会いによって、こういう考えをもつに至ったのか、ということが僕にとってすごく興味だったんですね。だから韓国の平和運動がどうのこうのと大上段ぶったことよりも、ひとりの人間がいかにして変わっていったのかということが僕にとっての興味でした。そういう意味では、韓国の人たちが沖縄に出会い、今また、沖縄の人たちが韓国の人たちに刺激されてアクションを起こし始めてますね。そういうことが僕は、この映画を通していろんな意味で、僕らにとっても励みになればとても嬉しいなと思っています。
今日は高里さんに、ぜひこういうかたちで来ていただきたいと思ったのは、高里さんは、80年代から高里さん自身がフィリピンやアメリカなどに足を運び、滞在され、いろんなNGOとつきあいながら、世界のなかで同じ志をもったひとと出会いながら、いまの沖縄のなかの「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」を中心にしてアクションを起こしておられるので、そのお話のなかから僕ら自身がそこからまたなにかを始められるきっかけにならないかなと思っています。
あらためて、那覇市議会議員の高里鈴代さんをご紹介します。(拍手)
僕は、高里さんが80年代の終わりから、本当に活発に沖縄のなかで女性の視点から発言してこられましたね。そのことと世界中のなかで、人権という観点からものを見始めた潮流があると思うのですが、そこに至った自分のなかの経緯を話していただけたらと思います。
高里
「梅香里」は、一度目は私の選挙事務所で夜10時半くらいから見ました。で、二度目は(沖縄県)佐敷町の、シュガーホールという素晴らしいホールがあるんですが、そこでこの音楽を担当したピアニストのウォン・ウィンツァンさんのソロコンサートも兼ねて上映したんですね。それで今日は、三回目の「梅香里」をしっかり見ようと思ったんですが、残念ながら最後のほうに駆けつけました。
この映画のなかで、チョン・マンギュさんは、1988年にこの運動を始めたと言ってましたが、My Sisters Place
という基地村の女性たちのセンターも、だいたい同じ頃、1987年頃にスタートしたんですね。それで、それとほとんど同じ頃に実はフィリピンのスービック基地(に隣接している)オロンガポ市(*注釈あり)という所でも、女性たちがブックロードという、女性たちのお互い支援し合うセンターを立ち上げたんです。
韓国もフィリピンもほとんど同時にそういう動きが、期せずしてあったわけなんですが、たまたま私はフィリピンに何度かか関わっていたものですから、このブックロードセンターの女性たちといろいろと交流するようになったんです。
すると、あるアメリカの女性が沖縄に訪ねてきまして、(彼女は一ヶ月くらい沖縄にいたんですが)その彼女といろいろと話しをしているうちに、「じゃ1988年に、沖縄で、同じ問題を抱えている人たちが集まろう」ということになって、ほんとに小さな集まりだったんですけれど、韓国から2人、フィリピンから2人、そして沖縄から5〜6人、アメリカからも来て、これが、はじめて基地とつながった女性たちが問題を語る集会の最初だったんです。
そのときに、韓国のセンターの女性が2人来たんですね。いまその女性のお姉さんがそこのディレクターをしている方ですけども、ですから、80年代の後半の頃に期せずしてその両方がスタートして、それで、私もそのつながりの中に居たわけなんです。
それで、フィリピンのほうは、沖縄から10人、13人と、仲間を集めてつながりをもっていました。で、特にピナツボ火山の(噴火の)直後(というのは、あのニューヨークの埃の中とまったく一緒で、2階建ての建物が全部砂に埋まるという状態だったんですが)、ちょうど一ヶ月後くらいでまだ揺れていましたけど、そこに日本から、何ができるかと思って出かけていったんです。
すると、そこのフィリピンの女性たちが、じゃ、この中で私たちはどう生きたらいいかという話し合いをしているワークショップがありました。私は、出来る限りのものを持って応援に行ったつもりなのに、実は彼女たちが座ってワークショップをしている中で、かえって私が力づけられたんですね。そのワークショップの中身をお話したいんですけれど。
そのブックロードセンターは、女性たちが(米兵相手に)バーで働いていたりしてるんですけど、昼間になったら子供の健康のこととか、自分のからだのこととか、いったい社会はどんなふうにできあがっているのか、社会の経済の仕組みとか、なぜ米軍が居るんだとか、そういうことを一方では学習しながら、お互いを助け合っているセンターがブックロードセンターなんですね。
そしたらその、ピナツボ火山(噴火)のあと、全部潰れてしまって、住んでいる家も働いているクラブも潰れ、そして現金の収入はなくなって、もうどうしていいかわからなくて右往左往しているなかで、お互いに安否を確認をして助け合っていくと、ブックロードセンターのメンバーでもないけど、女性たちが駆け込んでくるんですね。それで、その女性たちを安全なところ(マニラなど)に移したりしながら、(ある母親などは、大きな教会の屋根にすごい火山灰が積もっているので、それをスコップでおろしたらいくらかあげると言われたらしいんですけど、スコップを持って上にあがってみると、自分のほうが落ちそうで、自分が死んでしまったら子供はどうするだろうと、スコップを屋根から投げて降りてきたという人も居たんですけど)そういうような女性たちが電気もなんにもない中で居たんですが、私が参加したそのワークショップはこれからどうしようというところだったんですね。そうすると、朝から20人くらいの女性が車座になって座って、お互いがなにを経験したかを話し合っていたんです。
するとひとりの女性が、噴火の日に双子を産んだんですね。そして、双子が産まれてどうしようもないなかで、友人の伝でブックロードセンターにつながって、それでその女性たちが、自分たちの子供も自分たちの周囲も大変なのに、その双子の赤ちゃんを交代で面倒みながら、マニラに助けていく間、ほんとに交代で赤ちゃんの面倒をみたという経過があったんです。そうすると、その女性がそのワークショップのなかで、みんな(自分をなんに例えるか?という)自分を例えながら自分のことを話していたんですけれど、ある人は「私はボロ雑巾のようなものです」と、「まるで社会にとっても、あるいは社会からは本当にそんなふうに見られているかも知れないけれど、でも、今の私にとってはそれでも、今、子供を育てていくんだと」と、手ぬぐいを出してそういう表現をしてみたり、そうすると、その双子を産んだ女性が、コーヒーの瓶があったんですけれど、そこにお水が入っていたのを移して、「今の私はこの水の入っていない植木です」と言ったんですね。「私は双子を産んで、もう本当にどうしようもない中で、それぞれ助けてくれた。それで今私には、毎日、この植木が育つたための水が必要です。それを毎日、誰かがいつも水を入れてくれて、私は今日まで生き生きることができた。でも、もう少し水をください。そうしたら、私は、本当は私は水を注げる側になりたいと思う」という、そういうワークショップをしていました。
それで、私はみんなからかき集めたカンパと荷物を持って行ったのに、むしろ、私のほうがすごい勇気づけられて帰ってきた経験がありまして、そのブックロードの女性たちの生き方、あるいは活動、お互い支え合うということにすごく触発されていたんです。
それからその韓国の女性たちについてお話しますと、韓国と沖縄はチームスピリットなどで全部つながっていまして、あの形の潰れていってしまった島がどんどん形を小さく変えていく課程にやっぱり合同演習などがあるわけですね。そうすると、その女性のセンターで、韓国の社会からある意味でははじかれるようにして、その基地周辺にいた女性たちが、米兵と結婚して生活を始めると、キムチは食べるなニンニクは食べるなと言われるっていうんですね。ですから(夫が)演習に出かけたときだけ、一生懸命食べて、必死に食べて、ニンニクも一杯食べて、(夫が)帰ってくる前になったら必死になって歯を磨いて準備する‥‥‥これはユーモラスに聞こえるけれども、実はとんでもないことで、自分たちの食文化、自分たちにとって最も快適なものが否定されるという日常なわけですね。で、それをある意味では幸せになるという願いを持って一緒に生活をしているなかで受ける相手の態度なわけですから、それでも、そういう大きなギャップをなんとか埋めながら、結婚という選択をしたら、そのなかで幸せになるようにというバックアップを、そのセンターはしていたんです。
それでまあ、そういうつながりを、私は沖縄のなかからも持っていったんですが、それには私自身の反省もあって、実はベトナム戦争当時、沖縄では必ずしもそういう運動は起こりませんでした。でも、その80年代になって、同じ基地のある地域では、そのように女性たちが活動を始めているということに、逆に私たちが沖縄でできなかったことがなんだったのかということも考えさせられますし、また、沖縄は、実際に、基地の周辺の状態というのが復帰で変わったんですけれど、でもそのときそこに生きた女性たちはたくさん、また今別のかたちでそこに生活をしているわけですから、そういうつながりをどうしっかりと持っていくかということが課題だったわけです。
それで、ブックロードセンターに、ピナツボのあと、何が必要かって相談にいったら、電動ミシンが必要だといわれたので、麻薬の運び屋ならぬ電動ミシンの運び屋ツアーというのを計画して、荷物はできるだけ持たずに、電動ミシンを一台だけ持つというツアーを13人で組んで行くというようなことをしながら送ったりしていたんです。
それからフィリピンの女性の活動がスタートするのに、ここにもアメリカのメノナイトという非暴力の協会関係があるんですが、そこの女性がひとりフィリピンに来まして、バーに毎日入って行くんですって。で、バーの経営者がだんだんアメリカ人女性の存在が気になって、その女性と話しをした働いている女性はクビだと言われたらしいんですね。すると、そそのなかの一人の女性が、そんなふうに禁止するほどの人は一体どういう人なんだろうと思って話しをした人が、実はそのブックロードセンターを立ち上げたパートナーのひとりになったんです。韓国でもそうなんですね。アメリカから来た女性のひとりとのパートナーでスタートしています。
それで、そうしたつながりを小さいながら持っていくなかで、実は1989年に、今度はやはりアメリカの非暴力組織がありまして、世界でいろんな国際平和会議が開かれるけれども、実際に地域で活動しているのは女性が多いのに、どうも国際会議に代表で出てくるのは男性が中心なので、ならばそれぞれの国の女性を呼ぼうということで、9人の女性をアメリカに呼んでくれたのが1989年にありました。これは
Womens Speaking Tour といって、Voices of Hope and Anger 女性たちの怒りと希望の声というSpeaking
Tourがありまして、それを89年の3月30日から40日間をかけて、アメリカ全土を横断するという計画を受けまして、フィリピン・韓国・沖縄・ホンジュラス・プエルトリコ・ドイツ(ドイツにも米軍がNATOとの関連であります)そういうことで、行ったんです。それが始めて私がアメリカに行った体験だったんです。
その時に、フィリピンの女性、韓国・My Sisters Place のディレクターをしている女性、それからプエルトリコの女性、ホンジュラスの女性という風にして、今度は一緒に寝泊まりをしながら行動するという経験をしました。
その経験はひとつのヒントになって、1996年に、沖縄から女性13人の始めてのアメリカ・ピースキャラバンというのを組んだんですね。で、そのピースキャラバンの結果、沖縄で初めて女性の会議を開いた時に、チョン・ユジンさんが初めて来たんです。
ですから、ユジンさんとの出会いの前に、今申し上げた背景があります。
西山
一応、流れがわかりましたね。すごいですね。で、北京で行われたNGOフォーラムだとか、女性会議とかというのは、あれがひとつの大きなアジアのなかでの動きだったと思うんですが、この間、去年は沖縄サミット、来年は韓国でやりますね。で、こういう今のある大きな勢いはやっぱり86年までにそういう風にして広がっていったと言えるわけですか?
高里
そうですね。そのあたりから、積み重ねができてきたんではないかと思います。
西山
いま、高里さんのところには、この前も、毎日のようにビエケスからFAXが入ってくるとおっしゃってましたが、そういう、いま直接にインターネットを通じて、情報の交換が、言葉さえできればすごい情報の渦が回ってますが、それはいまどういう風に沖縄で活かされていますか?
高里
そうですね、実は7月30日、私は梅香里に行ったんですけど、ちょうど来年、女性たちの会議をしたいということで、この女性の会議の組織は、東アジア・アメリカ国際女性ネットワークというのですが、【その前に、軍事主義に反対する東アジア・アメリカ女性ネットワークというのがありまして、それは96年の、沖縄からはじめてアメリカに行ってそのお返しのようにして、97年にこの会議が沖縄で初めて開かれたんですけれど、それが二回目は、こういう問題の根元、引き起こしている大元はワシントンだ、ペンタゴンだという話しになりまして、アメリカで二回目を開催するということで、1988年の10月に、第2回のピースキャラバンとあわせて、ワシントンで会議を持ちました。で、そのときに、ユジンさんも居ましたし、また沖縄で「梅香里」の上映会をやった高江洲あやのさんも来ましたし、またこの映画の製作の中心になっている湯布院のメンバーもつながっていますね。 そのアメリカの会議で、そのあと翌年は、(オランダの)ハーグで今度は世界平和会議が開かれるということになって、それなら、共通に米軍基地を抱えて、あるいは送り出して、そしてその結果もたらされている様々な女性に対する暴力、あるいは環境破壊、つまり、安全の名のもとに駐留をしているけれども、実質、周囲で生活をしている人間の安全が逆に脅かされたり侵害さたりしているということを共通に出していこうということで、ハーグの平和会議では、フィリピン・韓国・沖縄そしてアメリカと横に座りまして、シンポジウムを三つ出したんですね。で、そのとき、では三回目はどこにしようという話しになったときに、実は二回目にはフィリピンという話しがでていたんだけれど、むしろハーグが5月の直前に沖縄でサミットが開かれることが決まったので、急遽、沖縄で三回目の会議をしようということに決まって、去年の6月に、国際女性サミットと会議を持ちました。】 で、一年おいて来年は韓国で、その会議をしようということで、7月にその準備会があって行って来たわけです。
で、その梅香里に行きましたら、そのときに、プエルトリコのマリアさんも来ていまして、彼女は沖縄のサミット前に開かれた女性会議に招待をして初めて出会ったんですが、そうしましたら、まず、プエルトリコって遠いはずなのに、もう見るもの買うもの、特に食物はまったくプエルトリコと一緒だって言うんですね。で、彼女はまた辺野古の「命を守る会」を訪ねて行ったときも、プエルトリコと一緒だとおっしゃってました。
で、その彼女が帰ってから、(あまりに毎日のようにメッセージがくるので、実は私は全部全部読めていないんですけれど)7月29日、日本と同じ参院選の開かれたその日、プエルトリコは住民投票があって、その結果、7割の住民が即時返還つまりアメリカ軍の撤退を投票したんですね。それで三項目ありまして、ひとつは即時、ひとつは2003年まで、最後は(米軍が)いてもいい、という三項目だったのですが、即時撤去‥‥しかも、今暴力をふり続けている人にあと三年間同じでいいですよとということが、どうして言えるのか。ということで、即時撤去ということが7割を超えたということを、彼女も韓国から電話で確認をしていました。
それで、いま、プエルトリコの状況を私たちも知りたいということで、実はもうアメリカのほうではプエルトリコとアメリカの女性たちがつながって、次のネットワークを新たに作っているのですが、今、抗議で座り込んでいる、今日は市長はこのようなメッセージを出した、今何人逮捕された、そして逮捕がまた延期された、そして逮捕に至った状況はこうだ、などという情報がインターネットを通して届いてくるんです。
で、韓国でマリアさんが持ってきたビデオを見たんですけれど、軍が演習を開始したことに抗議する人たちの抵抗がもの凄くて、そして、その人たちを捕まえて留置するのですけれど、その撮影された逮捕の状態が、(ビデオなんですけれど)実は、軍関係のなかにビデオを撮った人がいてそれを密かに渡してくれたらしんです。というのは、その内部のものなんですが、全部衣服を脱がせて下着だけにして、もの凄く打ちのめしている映像がそのままあったんですが、実際に、そういうふうな状況がいまでもプエルトリコはあるんですね。
それで、梅香里(射爆場)の場所を見て、またビデオを見たりして、プエルトリコの女性たちがまったく同じ状態だということで、特に今回のマンギュさんの話しを聞きながら、彼にもぜひプエルトリコを見てほしいという話しをしました。
私自身はまだまだインターネットを駆使しているわけではないし、座り込んでいる時間もないので不得手なんですけれど、確かにそういう意味で今は情報が入りやすくなったということが言えるよになったといえますね。
西山
だからそういう情報が入るようになると、会議でまた顔を合わせ、それからまた情報の交換があって、で、言及しやすくなりますよね。それはみててもわかるんですね。
今度、ユジンさんが沖縄に来て、不幸な事件があるときだけにこういう自分たちの闘いがあってはいけないとメッセージして、それが今度の8月の頭から沖縄で金曜集会を始めましたね。その報告をしていただけますか。
高里
金曜集会は私自身はまだ参加してないんですが、6月29日にまた強姦事件が起こって9月11日に初公判があったんですね。いつも不意打ちのように事件が起こって、起こり続けてけているにもかかわらず、さらに不意打ちをかけられるとそこで、はっとなってまた抗議集会をやる、そこで各自治体もそのことで抗議集会をして、それから県議会も意見書を出す、ほんとうは事件や事故がずーっと起こり続けているのに、少し大きなことがおこるとまたはっとするわけですね。連続して放火事件が起こって、抗議して、外出を制限しろと言ったと思ったら、そのことと別のことが起こる、またそれに向かって抗議をするということを、ずーっとこの間、沖縄は沖縄は繰り返してきました。
ですから今回事件が起こったとき、女性たちはいったい何が問題だろう、それはひとつここではっきりしたいと思ったことは、被害を訴えた人が、(被害を訴えたことで)逆に社会問題になり、
政治問題になり、訴えたらそこに海外のマスコミまで飛んでくるという事態になると、もし私たちの中の一人が同じような被害にあったらすぐ、訴え出られるだろうか
と考えると、私だったら訴えられないとか、考えてしまうとか、当然よという人はそこにいた7、 8人のうち全員じゃないわけですね。むしろ100パーセントは躊躇するとなるわけです。
だったら今、声を上げた女性が声を上げたことによって、集会が開かれ、集会が終わった後、またもとの状態に戻って、また次の事件があったら、また騒ぐ。あたかもさらにおおきな次の事件を待つかのように。そんなことになってはいけない。ということで、これは振り返ったら1995年の事件の後にいったいなにが変わっただろうか。逆に状況は政治的にも悪くなっている。じゃあ、女性が被害を訴える環境は訴えやすくなっただろうか。必ずしもそうではないですね。それで今度は、抗議、あるいは地位協定を改正しようというようなことだけの要求ではあまりにもむなしい。そして、それは私たちの本当に願っていることでもない。だから、(被害の)声を上げた人が、声を上げてよかったと思えるような状況をつくっていかなければいけないということが話しあわれて、今回は女性議員たちの集まりもありまして、(県議が4人いるんですが)その女性議員たちで沖縄全県の51人の女性議員に呼びかけて、その内の44人が署名をして、他の人が拒否したというわけではないんですが、はっきりと公明党だけは独自にしたいので考えさせてくださいと言って参加しなかったんですが、いずれにしても44人の女性議員は名前を連ねました。そのときに入れた項目が、その被害者に対してのケアの問題、あるいは被害を訴えたときに、その人に一刻も早く必要なサポートがそこに行
くというしくみを行政も、あるいは行政というならば、県の中の女性政策室もそうでしょうし、基地対策室もそうですね。そういうところもしっかりとそういう方策・政策をきっちりとするということを今回はしっかりといれさせようと。で、地位協定が改正されたとしても、ま、されないんですね。されない理由があるんです。されたとしても、その被害者がそのまま放置されていたら、それは同じことなんですね。ですから、いままでも被害を訴えても2日後に取り下げるか、沖縄の警察に訴えても、それを取り下げて、基地の中でやるとか、あるいは1993年には被害を訴えたのに、容疑者がアメリカに逃亡して、それをやっとつかまえて連れ戻すまでに4ヶ月かかって、そのとき女性は4ヶ月後に事件を取り下げたんですね。それで容疑者は強姦罪では裁判にならずに、要は逃亡したということでの裁判になったんですね。ですから、そういう金曜集会の一つの背景には、今、声を上げた女性をしっかりとサポートするということと、このような状況を変えていくための確実な方策をつくっていく、活かすということを決意して、それでまず県庁前で集会を持ちました。そのあと、毎週金曜日にアメリカの領事館の前で集会をしようということで、これは行ける人、そのときに時間をとって行ける人ということで、一人でも二人でもやり続けようということで今、4
回目でしたよね。続けています。
西山
詳しく聞きたいことはたくさんあるんですけれど、せっかくですから、いろいろと質問を会場から受けたいと思います。
会場の男性
湯布院だけでなくて、北富士にも確かあると思うんですが、北富士には「しぼくさ母の会」という、大変活発な運動があって、ベトナム戦争のときに「北富士をベトナムにつなげるな」ということで、ずっとやってこられた伝統があるわけですが、もし北富士の状況、女性がその後、どうなったかということを、私怠けていてよく知らないので、教えていただけないでしょうか。
高里
沖縄の私たちのグループは、必ずしも北富士の女性たちとつながりを深く持っていません。しかし、皆さんは沖縄にもよくお見えになりますし、金武町の実弾砲撃演習が全国の5カ所に移動しましたね。移動したことによって、それぞれの地域で抵抗運動があるんですが、そ
の大きなつながりの中心になっているのが湯布院ということで、ネットワークがあると思います。むしろ、ここにいらっしゃる方の中でご存じの方がおられましたら、ぜひご状況をお話いただきたいと思います。
<テープ交換>
会場の女性
7月のはじめから8月にかけて、会の人が沖縄に行って来て報告をされたんですが、それを私は間接的に聞いたんですが、沖縄の基地反対闘争でも若い人があまり関心がなく、基地反対は年輩者が多いと報告をされていたんですが、新聞なんかでも読みますと、沖縄では基地に対する賛成、反対が5割ずつと言う感じで、そういうのを見ると、私のそばにも厚着基地がありまして、テロ事件の後、ここ2、3日騒音がすごいんですね。高度が下がっていて、時間も長いし、テレビのボリュームを最高に上げても聞こえないという感じで、基地の問題についてどうやっていったらいいのかなあって、希望をもてないようなところもあるんですけれども、それでもなんかやっていかなければってぼちぼちやっているわけですが、沖縄の方たちからもぜひどんどん発信をしていただきたいとそういう風に思っています。
高里
沖縄の若い人たちを含めて、今の状況はということですよね。今日は9月16日ですが、今年9月8日というのは講和条約50年目だったんですね。安保の50年目だったわけです。5年前の同じ9月8日は実は沖縄の県民投票の日でした。それで基地の整理縮小と地位協定の見直しということで、投票率が6割弱で、結果はその8割以上が基地の整理縮小、地位協定の見直しに賛成だったわけです。そのときに自民党関係は投票をボイコットするようにという動きもけっこうありましたし、また基地が実際にない地域などでは30何パーセントという低い投票率でしたが、のべて女性70数パーセント、男性が70数パーセントというような所もありました。
で、あの住民投票はなんだったのかということなんですが、このような市民投票を県レ ベルでやったところというのはないんですね。47都道府県で県民投票をやったところはありません。新潟県の巻町とか町レベルではあるにしても、県レベルで県民が投票し、その結果、8割が地位協定の改正を求めたのに、5年後、まだそれは実現してないどころか、ついこの間のパウエルさんの答えも「地位協定の見直しの必要はない」
ということなんですね。こちらにとって身近で深刻なことであっても、それをどんなに取り組んでいても、そのことを否とする力が政府にあり日米にあり、そのことが強ければ強いほど5年たってもそのままだし、ましてそうなったことへのある意味では挫折感もそうですが、これを埋めるかのように振興策がやってきたり、沖縄の地域をどんどん当事者が当該地域だというふうにして当事者を分断していくわけですから、そんなことが過去5年間あったわけです。
県民投票の時も、沖縄では高校生たちが自主的に模擬投票をしましてね。公立高校のほとんど 9割近い66校の内63校が、模擬投票を自分たちでしました。そのとき沖縄の高校生たちは、自主的に実行委員会を作ったりしてやったことを思うと、沖縄全土で高校生た
ちの中に、自分たちにも投票権があったらという思いでやったとおもうんですね、ですから関心がなかったんではないといえると思います。
今年、海兵隊が高校生のスカートをめくる事件があって、沖縄中の怒りが高まって、地位協定の改正や外出の問題がいろいろでましたね。そしてついには海兵隊の撤退を求める決議書が県議会でも各地方議会でもどんどん採択されたんです。そうすると4軍調整官があわてまして、それで彼は自分の部下たちにメールで県知事もそれに続く議員たちもばかだとんまだとひどいメールを送ったんですね。そこで彼は、謝罪に追い込まれました。その直後、実は彼は記者会見をしました。そしてキャンプハンセンのメスホールで200人、ひとを雇用するというんですよ。アメリカ軍の大きなレストランで料理を作ったりするんですね。彼が言うのに「これほど1度に200人雇用する企業が他ありますか」と言うんです。沖縄では公務員になることがほとんどの若者の願いです。なぜかというと行政が沖縄にとっては、最大の雇用先ですから。ですから4軍調整官がうそこけるわけです。「みなさん、200人も雇用するところが他にありますか」というわけです。みんなの怒りを沈めるために、雇用少し拡大すれば、失業率が全国よりも高い沖縄では、怒りを持っていてもきょうそこに仕事があれば、そこに息子も娘も行くでしょう、ということなんですね。
そのことがこの5年間、沖縄の声に答えたというという形でSACOができ、SACOに並べられていることはひとつも沖縄のためになっていないわけですが、枕詞は沖縄のためとなるわけです。
このあと是非この話し合いに変わってほしいと思っていますが、ニューヨークワシントンの同時多発テロに4億ドル、アメリカの議会は本当に無条件にブッシュに4億ドルを認めたんですね。これは日本円にして4兆円だそうですね、今すでに持っている軍備の力の他に4兆円OKていうんですよ。たとえば普天間基地を辺野古に移設する基地建設費は、25年持つへリポートが1兆円だと言われてますね。その4倍、これを建設費ではなくて紛争の原因になってるものに使えたら、この建築が必要ではなくなるんですね。
話しが他にいきますが、
若者も元気があるところはある。ないところはない。無関心な子供たちも多い。あまりにもなじんだ風景ですから、少女の事件が95年に起こったとき、今まで高校生でバスに乗って基地を見ていて、基地の中で芝生が広がって、ゴルフコースにたっている電球が赤い電球なんですね。その電球を高校生たちはとてもきれいだと思ったというんですよ。でも少女の事件が起こって、これが何なんだ考えたとき、それまできれいだと思っていた基地の風景が初めて違って見えた。いつでも基地の風景がきれいに見えてしまう、状況がますます作られているし、基地が必要なんだという状況がさらに強くなっているんです。
わたしの友人の高校の教師は愛媛丸があのような悲惨な目にあったとき、実際にホワイトビーチの側の高校の教師なんですが、彼女は生徒たちに呼びかけて、それを題材にしたダンス劇を創作しまして、愛媛丸の水産高校に手紙を送ったり、自分たちは同じ衝突をした原子力潜水艦の寄港するホワイトビーチである、そしてこのようないろいろな問題をずーっと抱えているけれどもと、高校生から高校生にメッセージを送り、自分たちですばらしいダンスを上映してくれました。
また、片言の英語を一生懸命練習して、ハーグ平和会議に行くとがそういう若者もい
ます。それをいっしょになって取り組む教師がいるからでもあるんです。
一方では米兵とつきあいたいという女性もいます。そうするとその女性たちに対してアメ女、こく女だといって、なぜこういう状況が起こっているのかということを抜きにして、女性たちもけっこう遊んでるというじゃないのとか、本土でもひどいのがいるってねとかいって、容疑者の問題をおいといて、週刊誌などは言っています。
私は今名乗ってます。私はだーれ、私は沖女、沖縄の男性しか愛してなかったので、沖女だといっています。「その人たちが、あの人たちがいるから」というレッテル張りというのが今あります。
ほんとうに思うんですが、沖縄で起こっていることがかならずしも全国紙に載らない、必要なことがなかなか伝わらないなということがあります。
今回のテロ事件で米軍基地は、デルタというんですか、全部バリケードをはるようにして、こもって緊張していましたね。でもあの台風の中でいざ出動してこいと言われてもあの台風の中では出られなかったんですね。台風が2日間も3日間も停滞していて議会も全部休みましてね。
私たちの間では、さすが台風、やっぱりウチナーの台風はえらいと言ってみんなで感心してたんですよ。でも簡単には感心してはいけないですね。離島では本当に被害を受けまして、自衛隊が水を運んでいます。ですから沖縄の台風はある意味で沖縄を守ったんですが、そういった別の問題も起こっています。
それでこの場はぜひ今度のテロ事件のことをどう考えたらいいのか。テレビを見る度にアメリカの国旗をお布団のようにかけている人もいて、一面異様な雰囲気ですし、また一方ではあのがれきの中から子供たちや赤ちゃんたちの遺体が発見されているのを見ると、アメリカのニューヨークの子供たちであろとう、イラクの子供たちであろうと、また沖縄の子供たちであろうとこういうことが起こってはならないというのをどうしたら、作って行けるのかというのを、こういう場で話し合っていけたらと思います。
会場の女性
今のことと関連してなんですが、本当に今回の事件を見ていて、もちろん私たちの暮らしまで含めて危険になる状況だなあと 思うんですが、特に米軍基地は世界中に、沖縄にも日本にもあるわけですけれどもそ
ういう中で、アメリカの国の名前によって行われるテロに世界中が巻き込まれてしまうというわけで、私は非常に暗い気持ちになってしまっていて、どうしたらいいんだろうと思っていたんです。
そうしたら、おととい、国会議員の川田えつこさんがとにかく街頭に出て、自分の言葉を伝えたいと呼びかけてくれて、それにちょっとだけ参加したんですね。それは本当にハンドマイクとチラシしかないという地味な宣伝で、ところが本当に私びっくりしたんですけれども、チラシを取りにくる人たちがたくさんいる。それから話し合いをする。そういう状況が生まれたんですね。あ、そうなんだ。自分にできることはなんでもいいからやろう。そして、こういう状況の中で戦争によって報復すると言うことではなくて、平和なやり方しか、問題解決はない、テロを根絶するとアメリカは言っていますが、平和的な解決しかないと自分で思ったら、いろんな形で表明していくことが大事なんだなとおもったんです。
テレビなんか見ていると、一方的な放送がずーっとされていて、あーいう報道におか しいテレビ局などにも直接言っていくとが、そんなことが重要だなと思っています。自分の意志を伝えていくことがどんなに大切なのか、自分が思いついたことをやればいいんじゃないかと具体的なやらなきゃいけないなと今自分に言い聞かせているところです。明日なんですが、とりあえず連絡できるところで、声を上げていこう、6時に社会文化会館で集まりましてその後、国会前、総理官邸前で請願行動とデモを計画しています。議員の人たちにも見てもらいたいと思っています。どんな形でも自分の意思表示が大切だなと思っています。
会場の女性
若い世代が、生活のために基地で働くしかないというより、私アメリカ好きだもんという人が増えているような気がしますがどうなんでしょうか。
高里
日本はアメリカが好きだと思うんです。沖縄もアメリカ好きですね。だってアメリカを好きになるように私たちは生きてます。だって見るのは99パーセントアメリカ映画ですし、ドイツやフランスの映画なんて見ることあんまりないですよね。アメリカの食文化がきてます。戦後、米軍とともに来てるのはアメリカ文化アメリカ食生活、だんだんと経済的にものすごく格差があったものから、あるいは銃剣をつきつけるようにして基地の警備をしていたころから、その垣根が下がってきて、金網が腐食して、40年もたったら金網が腐っているんですね。腐った金網を曲げてそこから出入りしても気づかれないような時期が80年代にありました。それぐらいになじんでしかも、思いやり予算で植裁されているキョウチクトウが基地のフェンスの内側をずーっととりまいてますから環境保護地域のようにも見えますね。だんだん抵抗がなくなっているのは、これは自然なことだと思います。まして95年後からは、よき隣人政策というものが、ありまして去年のアースデイのときには、基地の中の子供たちと沖縄の基地周辺の子供たちといしょに北谷の浜のテトラポットの内側の塀に絵を描くというのをみんなでやるわけですね。それから、基地の中のパラリンピックで、米兵の人たちがボランティアで障害を持つ人たちの車椅子を押してくれたり、いっしょにいろいろなボランティアをするというプロ具ラムなどがあったり、それから実は、那覇市の母子寮をペンキをぬりたいという申し出があったんですよ。「いや結構です」といったんですが、名前を載せなくってもいいんですという。それならやってもらおうということになったらしく、やってもらったら、ボランティアをやってもらったものに入っているわけですね。
文化的に違和感がないような環境がどんどん作られていく中で、もう一方は戦後方策と同じように積極的にやってるわけですね。ですから、なじむと言うことは自然なことですね。
留学先がアメリカというのが最も多い訳ですし、高校生でも中学生でもアメリカにホームステイで行くプログラムも多いですし、基地の中にホームステイするというプログラムもありますし、基地のオープンハウス、嘉手納フェスティバルのとき誰でも入れてジェット機にも載せてもらえますし、そんな状況の中でかえって嫌いといえる人のほうが、少なくなり、へそまがりに思われてしまうほどなじませられますね。それをもっと批判的に見るということをするには、よっぽどそこに、きちっと系統だったしっかりとした教育、問題を理解する批判力、ひとりひとりの個人が尊重されながらそうされないことへのしっかりとした問題意識が育つ環境を確保していかないとそれはとてもきびしいと思います。
一方では、日の丸君が代ですが、沖縄は抵抗が一番強いかと思ったら、あっという間に100パーセントになったんです。急進力が外にたいしてはいかに強く働くか、そしてそれが働くときには120パーセント慣らされてしまうというぐらいの力が働くということなんですね。
国体のときにはついに前天皇はこれなかったんですね。それを何とか最後、前天皇をと思ったんですが、それだけはかろうじてできなかったことの一つになるんですが。そういう中でおっしゃることはよくわかります。沖縄もおしなべて同じだと思います。
会場の男性
さきほどの7月に準備会があった女性会議はいつどこであるんでしょうか
高里
来年の8月に韓国のソウルであります。
軍事主義に反対する東アジア、アメリカ国際女性ネットワーク会議の準備会のメンバーが梅香里を訪ねたんです。この映画にもあまりお顔が見えないのは、梅香里はすてきな男性リーダーがいますが、わりと男性が中心ですよね。妻は経済的なサポートをしていると話していますが、できたら来年は梅香里の女性たちにも参加してほしいと思っています。
西山
どうも、ほんとうにありがとうございました。こういう梅香里という映画を通していろんなことが語られると思うんですね。今日ごらんになった方は自分の地域で映画を見ながらこういう話し合いをもっていただけたらと思います。ぼくは沖縄も若者たちはどうかというより、沖縄に聞くより、僕たちはまず本土の若者は俺たちの状況はどうなんだということがまず問題だと思います。僕は福岡の筑豊の近くに住んでいましが、そこの住んでいると日本というがよく見えますね。なぜかというと情報があきらかに不均衡だからでね。 東京の情報は圧倒的に多いです。でも東京に住んでいて地域の話題がでるのは年に一回か2回ですね。そういうことなんです。マスメディアの問題は。
つまり名護の人たちはヘリポートを住民投票でノーといったんですよ。それが今作られようとしているわけです。先ほど高里さんが言われた、ノーと言ったにもかかわらず、何も変わらないこれが何を自分たちが意志表示してもだめなんだという無力感をもつんす。
現地に足を運び、日本のマスコミはほんとうに罪だと思いますが何か事件が起こったときは何もかにも一緒くたにして追いかけますが、これは、僕自身がテレビの仕事をして企画しても沖縄の問題ですからといわれてしまうわけです。つまりテレビの人間、マスメディアの人間も企画を出しても、取り上げられないという無力感にあるんです。それがもともとは問題なんです。沖縄の人たちの痛み、先ほど厚木の人がいましたね。
東京周辺は米軍基地に囲まれてるわけですね。僕は1970年代に福生の横田基地をウォッチングをする動きに何回か、遠藤洋一さんのところを訪ねて行っていますが、それは僕が田無に住んでいたからです。自分も三多摩に住んでいたから自分の問題意識として彼らが米軍基地をウォッチングする中で、今どういう飛行機が飛び立っているから観察して全部機種を選定して、今沖縄で何がおこっているか、今米軍基地のこういう機種が動いているから朝鮮半島でおこっている、自分たちでずーっと長い間データーをとりながら、運動してたんですね。そういう東京周辺の問題についても東京都民は関心が薄いわけですね。
東京都の囲まれてる米軍基地に関する関心がほんとうに強くなったら、沖縄の問題も解決すると思いますね。日米安保に疑問を持つからですね。日米安保に疑問を持て
ば、ほんとうに地位協定の問題、思いやり予算というばかげた問題についてみんな関心が強くなるはずですよね。
今の構造改革といってるのはそういうお金の使い方について問題にしているんじゃないですかね。今回のテロ事件について僕の考えをいえば、国家と国家の安全保障というまやかしを僕らはもう自覚したほうがいいと言うこと、アメリカ国内の中で自分たちの国の制度によって訓練を受けたアラブ出身のひと、今日NHKのBSでやってましたが、子供たちが今回の事件について、アラブ出身のこども、黒人のこども白人のこどもを含めて、スタジオの中で討論してましてね。テポドンが撃たれたとき朝鮮総連系の学校のこどもたちがチマチョゴリを切られたいろんな事件が日本の中で起きました。でもテレビは討論をやったかどうかと思うんですね。今、日本の中で抱えている問題、沖縄の状況がずーっとこのままいった場合、テロになった場合僕たちはなんと答えたらいいか、これは起こらないとは限らない、そういう問題を僕ら自信が、今回もアメリカの事件で考えなければならないと思います。
これはもっと時間があれば、エネルギーの問題、食料の問題、軍事基地の問題、枯葉剤などベトナムの取材とかいろんなことを通して、アメリカの横暴さということを、僕自身が感じていることを、しゃべりたいことがたくさんあります。端的に言うならグローバリズムというのが、アメリカの価値観を押しつけるというひとつの政策ですよね。
ヨーロッパ大陸にも米軍はたくさん配備されています。世界中が抱えているほんとうに大事な問題です。
その問題を高里さんは、世界中のひとたちと女性の視点から、命という問題から今問うていってるんですね。命という問題でとり組んでいけば、宗教も民族も関係ない筈なんですね。
そのことを僕は高里さんの本から教えられたし、韓国のチョン・ユジンさんたちからも学んだんですね。
こういうとことから、この問題にアプローチしていくことが一番わかりやすい、と思います。本当に今日はどうもありがとうございました。(拍手)
出席者プロフィール:高里鈴代(たかさとすずよ)
「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表。フィリピン・韓国・アメリカの女性たちと共に「軍事体制に反対する東アジア・アメリカ国際ネットワーク」に取り組む。20代に2年間のフィリピン留学が、アジアとのネットワークの原点。一家で東京在住中、婦人相談員を志し、都婦人相談センターの電話相談員となる。沖縄へ戻り、那覇市婦人相談員を7年勤めた後、那覇市議会議員となる。現職。
(*注釈)
「スービック基地」は、かつて米海軍基地があったが、数年前米軍は撤退した。現在は、保養地や経済地区としての「スービック」の名前が有名である。
位置はバターン半島の付け根の西海岸にあたる。つまりルソン島中部西側の海沿いになる。マニラからは、車で3時間〜5時間程度。
米海軍の撤退の理由は、フィリピン側の反対によるものだが、一番大きな理由はピナツボ火山噴火以後、雨季に激しい火山灰流(現地ではラハ−ルと呼ばれている)に毎年襲われ、全面的に交通遮断されてしまい、基地の機能を失ってしまうからとも言われている。
●