2001年10月6日 


土本典昭監督
西山正啓監督とのトーク (採録)
  

東京都新宿区・角筈区民ホールにて 映画「梅香里<メヒャンニ>」の上映後   
書き起こし文責:梨木かおり   
不明部分は現在確認中です   

西山
 土本さんとトークなんておこがましいんですけども、僕が土本さんから聞きたいことがたくさんあります。と、言うのはドキュメンタリーを撮ってる人間にはもちろんいろんな作品があります。いろんな切り口があるし、いろんなスタイルがあります。土本さんが水俣病をずっと一貫して追ってこられて、尚かつ水俣だけではなくて今、テロの問題に非常にクローズアップされているアフガニスタンにも土本さんは10年前に、約1年間取材に入られて、「よみがえれカレーズ」という映画を作られています。当時と、今、少し違うかもしれませんが、今、色んなことを考えさせてくれる問題、韓国で起きている問題もそうですが、僕らが冷静になって考えなければいけない問題が、今たくさんあります。そういうことについても僕は今日土本さんにも意見を伺ってみたいなと思っていますので、これから少しの間聞いてください。
 実は、すごく上がっているんです、僕は。本当にありがとうございました。僕は土本さんからたくさんのことを教わって、こうして土本さんと一緒にしゃべるってすごくどきどきしてるんですけども、土本さんがこの映画をどのようにご覧になったかということをまず、お聞きしたいです。

土本
 今日、観たのは2度目なんですけどね、やっぱり頭からはっとしたのは、字は向こうの字ですけども地位協定とか訴えている問題があまりにも日本の、あるいは沖縄だったり、その問題と同じなんで日本の出来事の向こうの翻訳じゃないかと思った位でした。顔も似てるし、雰囲気も似てるし、そういったことで出だしから驚いたんですけども。やはり、射爆場っていうのは、本当に基地の中の問題でも一番危険な、本当ならば本国でやってもらいたいようなものを連続的に朝鮮戦争のあとから一貫して島の形が無くなるまでやってるとは、そこの人たちが憤激をして行動を起こすまでにやはり、20年、30年かけてやはり自分たちの問題として、非常に落ち着いてやっているんですね。それは大変な波があったと思います。事故が起きたり、人身事故が起きたり、色んなことで波がきていますけれども全く働き盛りの全さんが、落ち着いた形で運動を広めていると、一緒にやっておられる女の方たちも少しも気色ばらずに、もくもくとしてまた自信を持って、沖縄のことを睨んだり、日本の人たちとの連帯をどこか頭に入れながらそれが、全く当たり前のようにね、それは西山さんの人柄もあると思うんですけども、同じ問題、同じ仲間として喋り合ってると。すごく国境が消えて、越えて不思議な感じの映画だなって思うんですね。そういった意味では、やはり同じ問題で呼吸をしている日本と、韓国あるいは湯布院、沖縄という人の感じが全く素直に一体に出た映画で、こういう形からまたいろいろな映画が、記録が出てくるんじゃないかと思いましたね。それから、西山さんのテレビも観てました。2年半くらい前、彼がローカルで撮って「ベトナムに生まれて」という1時間くらいの映画を作られたんですけど、これは一人で企画して助手さんを連れて自分でキャメラを回してそして、自分で組み立てた映画なんですけども、これはね驚くほど、人間に対する愛情と、枯葉作戦をやったアメリカの戦いに対する憎しみがみなぎってながら、ひところはベトナムのベトちゃんドクちゃんですか、体が二人分くっついちゃってるような奇形を生んで大きな問題になりましたけど、確か1970年代ですよね。ところがそういう事件で、枯葉作戦の後をずっとたどっていたもんだとばかりおもっていたんですけれども、西山さんの描いた、枯葉作戦の後であろうと思われる航空写真なんかでたどっていってみても、まさに直下の村でそういう方が育っていっている。それに対するお医者さんとの交渉が描かれていますが、中の登場人物の話を聞いても、そのお医者さんが枯葉作戦のそういった被害の問題については触りたくなかったと。ずっと逃げ腰でいたんだけれどもやっぱりこの人たちに会ってそしてこのような会話をしてると。ある断絶を枯葉作戦の問題が伝わらなかった頃から20年ほどたった後の、疑問(?)の営みをやっておられる。そういう風に西山君はカメラを向けて見事な問題意識でベトナムの農村の家家の人たちを描いている。お医者さんを描いている。このビデオを見て、面白かったのは朝日新聞の紹介でしたけれどもこのテレビこそアメリカの市民に見せるべきだと。何とかしてアメリカのテレビで放映してもらえないものかという気が非常にしたというような批評がありましたけれども僕も全く同じで、もしこれがテレビの時間帯で1回で終わるものではなくて、もし持って回れるものならアメリカに持っていって見せたらいいなと思っておりました。余談ですがこれは世界のドキュメンタリーのコンペティションに選ばれて、確か外国にも配給されたんですよね。そういった仕事もされていて今度のこの仕事にも繋がっているという意味で、西山さんは一貫して人々との間で映画を作って回しているという仕事をされていると思います。今度の映画もやはり、不思議な親しみ深い登場人物と問題の共通性という点から、非常に人に観てもらいやすいものじゃないかと思いました。

西山
 土本さんに西山さんと言われるとこの辺が・・・。土本さんの家に伺ってスタッフみんなでいつもいつも夜中まで酒かっくらってね、すごいディスカッションというかいろいろ教えを受けたという、もうだいぶ経ちますね。僕は土本さんのスタッフになってすぐやったことは実は映画の現場ではなくて、映画を見せて歩くという現場だったんですよね。土本さんは自分が撮った水俣病の記録映画を水俣の対岸の天草、つまり不知火海の、つまり水俣病は水俣にだけしか起きてないと政府も言ってた訳です。そのために対岸の天草の患者さんは、つまり潜在患者と言われて表には出てなかった時代なんです。1970年代の半ばです。そのとき土本さんは自分の映画を持って対岸の天草をずっと、沿岸部を全部シラミ潰しに上映して歩くという計画を立てられて、それを不知火海巡回映画班と名乗って東京で寄付を集めて、行動をされたんです。僕はその上映巡回映画班というスタッフに加わってやったのが最初だったんです。だから映画を見せる行為、映画を見せて歩くことで実は映画を作ったことの意味が初めて生まれるということをそのとき3ヶ月間かけて天草一帯ずっと不知火海沿岸を上映して回ったんですよね。その映画会で実は何が起きたかというと、映画を見て、子どもたちもおびき寄せなければなりませんから漫画映画も持っていく訳です。それも土本さん、考えていますよね。それで子どもが来れば親も来るということでみんな座布団を持って観に来るんです。野外にスクリーンを立てて、張って、そこで上映するわけです。すると水俣病というものがいったい何であるかと言うことを天草の漁民の人たちが知っていくわけですね。それは実はそういったことを行政も一切してなかった、水俣病がいったいなんであるかということも伝えてなかった。自分の身内がなぜ死んでしまったのかという理由もわからなかった。というときに土本さんが作った水俣病その20年という映画を45分の映画を持って見せていくとつまり自分のおじいちゃんはこういう死に方をした、おばあちゃんはこういう死に方をした、全く同じだったということを口々に語り始めるんですよね。そうやって僕たちはスタッフで手分けして、テープレコーダーとメモ帳を持ってそこの人の生活しゅうを聞いて歩くんですね。実はその行動が次なる映画の大いなるシナリオハンティングであり、ロケハンティングだったと言うことですね。そういう行動の加えてもらったと言うことは映画を作る上でものすごく大変なことだったなと僕は思いますね。そういう意味では土本さんの一連の作品を、水俣病を告発するという運動と共にあったから、解説者が運動映画って言う言い方をするんだけれども僕は違うって思いますね。そういうふうにくくって土本さんが撮ってこられたドキュメンタリーを語るのは不遜だと僕は思うんですよね。当時の社会が激動するときに自分が記録映画で関わるという、それが内面の(?)に向かっている。

土本
 やはり僕はどちらかと言うと映画青年でもなかったし、映画芸術に惚れ込む方でもないんですけど、どっちかって言うと、自分が感じたことをどういう風に表現していくかというときに映画って言う方法があるなっていうことをかなり感じて、映画に入ることは遅かったですね。僕も28くらいから初めて映画の世界に入ったんですけど、かえってその前にいろんな飯の食い方をしていたっていうことが後で役に立っているんですけれども。映画を使って何か自分の見聞を何とかして人に伝えたいと言うことがあるんですね。亀井さんがよく昔言っておられたんだけど、自分は新聞の投書をやりたいと言っておられた。投書欄に投書をね。投書というのはやはり一方通行なんですよね。やっぱり映画を持って、見せていく。そういうことで人とつき合う、話し合う、出会うきっかけを作りたいというのはとてもありますね。確か49の年ですからかなりひねた監督が若い青年を3人ほど連れて、移動映写して廻る訳ですからね。みなさん来て下さいっていって、子どもが100円で大人が300円かな。今から1977年ころのことですけど。それが楽しくってしょうがない。みんなが眠ったような漁村あるいは水俣病なんてことを持ってくればみんながうっとおしいと思っているような漁村地帯に行ってビラをまいて映画を見に来て下さいっていって、一人来た、二人来たって笊の中の小銭を数えながら人が来るのを待っていた。そうすると人が変わらない人もいますけど、明らかに変わってくるんですね。そういうことを考えたから水俣の映画をつくったんですけども。水俣といっても知られているようで知られてないんですね。というのは全国にテレビの時代が来るのは、昭和のオリンピックの時だとか言われてますけれども、天草の小さい村々には電気が来たのがそのころで、テレビまで思いつかないってことで、全く映像なんて伝わっていませんから、全然知らない。新聞なんてのは5,60軒ある漁家の中でお店に1通しかこない。そんなような場所ですから、やはりそういったものが届いていくということが確実に見届けるということが、映画を作った人間としては快楽でした。やはり、これが本ではなかなかうまくいきませんね。僕は最近は、ここに詩人がいるとしますね、自分の詩を朗読すると、みなさんにきいてもらうというかつての昔の表現の仕方が、実は今でもこういう形態ではないかと、一つはですよ。もちろんテレビって言うのも結構でしょう。自分は各歩き、各感じたということをやはり語っていく。これは聞く人にとっても違うインパクトを与えるでしょうし、作り手とのつながりを持つでしょうし、作り手もそこから自分のこれから作っていくものを感じながら撮ったものを確実に伝えていくと。また、朗読の表現の仕方がジワジワっと広がってきていると思います。

西山
 土本さんがしょっちゅう僕ら若い人間に言ってたのは、映画で撮れなければスライドで、スライドで撮れなければメモして書くことで伝えていく。つまり自分のあらゆる可能性を試していくと言うことをしょっちゅう酒を飲みながら聞いてない振りをして聞いていました。
今日のこの映画の中でわずか1988年までは梅香里で何が起きているかということは一切伝えられてなかったんですね。わずか13年前なんですね。土本さんがよく「記録なきところには事実は残らない」という言い方をされますね。僕はもっと時間があればあそこの老人達に沢山話しを聞いてみたかった。もっといろんな事故、死亡事故があるし、不発弾の爆発によって事故があるし、そういうこともって思ったけど、実はもうそういったことはあそこに入っているモンソック君がやっていることだからそれは彼らに任せようということをすごく思った。やっぱりびっくりしたのは1988年までほとんど韓国の人でさえ梅香里のことは知らされてなかった。今でも国家保安法があって、わかりやすく言えば反共法なんですがそれがまだ足かせになっている部分がある。それと米軍犯罪が公に叫ばれる様になったのはわずか8年前なんですよね。ああいう痛ましい事件、韓国の人が怒るのが当たり前って言う事件。そういう不幸な事件によってでしか状況が変えていかれないということがある。そういうことを昨年、実はNHKのハイビジョン放送の番組を2本、正月明けからずっとやっていて、それは韓国の軍隊のなかにあるサッカーチームを撮ったり、韓国の闘牛大会を撮ったりとソウルと田舎を行ったり来たりして、そういう最中に南北の首脳会談が発表されるという事があった。それが、今回この映画を作るときの長い長い、韓国を理解する時間だった、と言う気がする。そういうことを考えてテレビに企画を出したが、テレビ局はこういう本当に痛い思いをしている苦しい思いをしている人の側にきちんと耳を傾けようとしないですね、今でも。それが本当に南北首脳会談という表の問題に対してはみんなが殺到するけれども、こういう問題については本当に伝えようとしない。それは、土本さんが昔テレビをやってですね、昔と「水俣の子は生きている」を一番最初にやったころのテレビがもっているテレビとドキュメンタリー映画の関係ですね、そういうことからすると今は変わったのかどうか、それはどういうふうに感じておられますか?

土本
 そうですね。作る側でのテレビと映画の作り方というのはやはり違いますね。テレビの場合にはやはりある種のテーマの仕立て方があります。それから上映時間があるでしょ。それから限られた時間での放映という宿命がありますから自由にならない訳ですけれども、そういう枠の中でどれだけ本当にわかる様にするかという工夫は面白いものですけれども、やはり映画を作っていく時には全く自由が欲しいし、自分の思いを入れる為には、やっぱりこれだけの長さではなしに、3分でも4分でも長い方がいいとか、その様なときに与えられた自由は大きいと思いますね。それから、映画を見せに行くっていう時にはその映画の足腰が相当強くないと引っぱって歩けない。この問題がどれだけNOWであるか、今日的であるか、人々に届くかと言う事について自信がないとなかなか自主上映というのは出来ていけません。テレビでもそうなんですけど、やはり放映しっぱなしというね、角度が違います。僕なんかフリーですからやはりテレビはなかなか水俣の問題を受け入れるある時期と、受け入れない長い長いむしろのいき?とねやっぱり30何年やってるとわかりますけど、大きな波がありましてね。今なんか、一番無視されている時期だと思いますよ。そういった意味では、それを表現し続けていく水俣病の人々の対人関係をね、いかに保ち続けるかが大きい。テレビなんかでも、優れた人がいますけど、役職が変わっていったりしていつの間にか全然テーマと離れてしまうという方がいますけども僕なんか何種類かの映画しか作っていませんけども、その人達とのつき合いは続けて、いつか作るときにはこの人達とやろうといいた人脈の作りかたをします。そういったのはやはり僕の認識を支えていますし、興味を支えていますし、表現を支えていくんでありたいと思っている。そういった意味では記録映画と言うのは主体的な生き方、仕事から教えてくれるといった感じがする。
西山:今回、例えば短い時間で撮ってですね、最後に急におばちゃんが出てきたりね。あれはドキュメンタリーでしか撮れないですね。普通のシナリオライターがこういう場面を設定して書くかっていったら書かないですよね。そういうドキュメンタリーの現実に出会っていくことの面白さということをすごく思う。胴長はいて韓国の公安と米軍を相手に撮影やってとんちんかんなことばかりやってたんですけど。あの干潟は監視されているんですね。だからつい1月もフランスの特派員が入ったはいいんだけれども帰って来たところを拘束されてフィルムを抜き取られたということがあった。で、どうやってあそこに行こうかということで胴長はいて冬だったからジャンバーを来てその中にカメラを隠して一見漁師の格好をして、ずっと後ろを振り向かずにとにかく行って下さいということで全晩奎さんがダーッと行って撮ったんですけども。そうやってのん島のすぐ近くに行ってノン島の○○島はもう監視されてますから一目瞭然でかいたく?に拘束されますよね。のん島に上がることが目的ではなくて貝を掘っている梅香里の地元の人たちの表情だとか、何をどのような貝を採っているのかとかそういうことをやっぱりきちんと撮影する事が大事なんで、そっちの方で腰を据えて撮ったんですが、ああいうところに渡り鳥がとんでゆく。本来ならあそこにに戦闘機が飛んでいるところでそれをああいうふうに出会わせてくれるんですね。全晩奎さんが湯布院の映画祭に来られた時に2日目の打ち上げが終わった後、自分が梅香里に住んでいて一番ラストシーンで実は一番自分が本当に幸せだと思うのはこういう風景が戻ってくることなんだということを映画から本当に希望を与えられたということを言われたときは本当にうれしかった。映画でしかできないことを全晩奎さんにそのことをきちんと返したということがとてもうれしかった。そういう意味では土本さんも長い間ドキュメンタリーをたくさんやってこられて予期しない計算できない動きがたくさんあったんじゃないかと思いますけど。
土本:最近は自分でも、こらぁ不思議なことになってきたと思うのは、あのアフガニスタンの問題ですね。2,3日前に急遽東中野BOXで11/3からモーニングで1ヶ月近く上映するって決まったそうですが、このところ心痛めた問題はアフガンの国内難民なんですね。それから戦争による難民。これは想像つきますけでも国内においてモーターシブ?が起きるんじゃないか、彼らはもう生活の基盤が農業だとしますとその農業が畑の6割以上が麻薬です。あそこは。しかし、ちゃん食わないといけないから自分たちで小麦とか米とか作りますけど、どんな野菜を作るにせよ、麻薬はあまり水が必要ないですけど、野菜なんかはたっぷりと水がいりますね。その水が3年間日照りで出ないとこれはアフガンでは大変なことなんです。金がなくても水があればいいっていう国なんです。今度のようなラヴィン氏の出来事がなくてもアフガンは内戦の中で人々が食っていけるかが心配。論調を見ているとタリバンの話にしろ何にしろ、民衆がどのような形で国内で生き、色んな警報が出ますね、人々が飢えているとか確かにそのような映像も伺えますけれども、アフガンはもともとどのような国で、どういう人々の暮らしであるかというのを僕は1988年の時期に西の世界というとおかしいんですけど、初めてアフガンに入ってアフガンでかつてない題材を撮らせて頂いて「よみがえれカレーズ」という映画を作ったんですね。これは、人々の生活が主題です。それからその時活躍している女性たちですね。女性たちの活動も親を失い、夫を失った人々が介護し、手当をするような女性活動家とかそれからいろんな社会の中でベールを脱いで、新しいタイプとして生きていく女性たちとか。もともとゲリラで暴れ回ったんだけれども考えてみるとアフガンの中で自分のテリトリーの人々の生活と共にしなければいけない、ヘラートのそばで武器をいつも構えて警戒を怠りなくそこで、カレーズというあるいは川ですね、そういった土木作業を兵隊の力でやりながら村の農業を守っているようなゲリラ集団。そういった人たちがいるところも撮影したし、アフガンから難民として出たといわれてますけどアフガンは昔からほっといても出稼ぎの国なんですね。それから雇い兵の国なんです。これは19世紀からアフガンの勇猛さは雇い兵として使われたという歴史があるんですね。それで確実に男の収入としては最低収入が得られる。というものでその伝統が色んな形を変えて今でも生きている。その映画の中には難民でイランに行って出稼ぎに行って帰ってきて・・・やはり自分はアフガンで戦いやアフガンで死にたいと言って戻ってくるような国境をトボトボと歩いてくる多くの集団なんかも撮影したりして描いていますけども、基本はアフガンの大地は豊かだということの可能性をカレーズという言葉に入れているんです。それはどういうことかと言うとアフガンは国の真ん中に6000M級の山脈がありますね。
○○山脈。そこにはいつも雪があるんです。その雪が毎年5,6月になると解けて地下水に入るんですね。その砂漠の非常な日照りの中、地下に人々は100年、200年、300年かけてカレーズっていう水路を作っているわけです。そこには水が絶えず確保されていて、それを汲み上げて畑の土に返してやるということで○○山脈に雪があれば来年は小麦がくるというような、そんなことがはっきりとわかる絶妙なバランスを持った国だったんですね。この3年○○に雪が少ない。日照りになり干ばつになり今の騒ぎとは別にして国内で500万の国内難民、飯をさしあげないと死ぬという数が500万といわれています。そういったことを多少、今、感じていただけるような映画を私は10年前に作っておりました。しかし、作ったときはどういう訳かあまり反響がなくて、残念だったんですけど今、テレビを見ながらアフガンの人々の暮らしを考えるとやはり映画を撮っておいて良かったなあと。もう二度とない町の二度と出てこない○○。そういったものを○○ながらやっておりますけども。この映画がもしアメリカの大量殺りくをモノともしない報復ということにつながる危険な未来があるとすれば一刻も早くみなさんに見ていただいてアフガンの人々に親しんでいただきたい。画面の中を見てもらいたいとそう思います。そういう風に思うと映画を作っておくっていいなと思います。またそのフィルムをもってみなさんと話が出来、今日のアフガンの問題を一緒に語れると、これは映画作家の人たちにそうないことですね。11年前には5000人も見ていないんじゃないですか。そういうフィルムが今、はっきりと一つの主張を持って見ていただけるものとしてあるんじゃないかと私は思います。時間を超えてやっといて良かったという思いがしてます。是非、見てください。来月やりますから。

西山
 今ね、アフガンの話を「よみがえれカレーズ」の話をしようかと思ったらちょうど土本さんにしていただいたので。本当に土本さん、当時ねなぜアフガンに行くかと言うときにアジアだと言うことを盛んにおっしゃってましたね。アジアが抱えているアフガンの問題だと言うことをね。そういう意味では僕らの関心のなさがこういう事態を生んでいるということも言えると思いますね。僕は福岡に住んでますから今盛んにテレビに登場している中村哲さんというペシャワール会のお医者さんとね、僕が住んでいる町の出身なんですよ。だから中村哲さんを囲んでという会がよくあって、そこでも中村哲さんと色んな話をしたことがあるんですけれども、あの人は命、つまりお医者ですから、命を救うという一点でもって宗教民族、すべてを越えてということを語っておられました。一番深いところで今の情勢を見ている日本人の数少ない一人だと思います。中村哲さんのペシャワール会というのはNGOなんですけれども事務所を持ってないんです。毎週ボランティアに来た人たちがいろんな発送作業とかをやるんですが、日本の国内で使うお金だったらそれを全て向こうに持って行きたいという主旨の元で、ほとんど90%のお金がアフガンに持っていって現地の医療スタッフを作ることにお金を使っている。日本で希有なNGOだと思う。そういう中村哲さんという人のやっていることも福岡のNGO、またアフガンということもあって、今までマスコミは伝えて来なかったけれども、そういう僕は東京に集中しているマスコミの抱えている体質が本当に僕はやっぱり、今日マスコミの方が来られていたらね、そこを変えていかなければ僕ら色んなことを知りたいという人間にとってはひょっとしたら誤った判断をしてしまうかもしれない。それだけテレビの影響が大きくなってきていますからということを最近すごく思う。そういう意味で「よみがえれカレーズ」がまた現代に蘇ったというこれは不幸なことですね。逆に言えばね。今のアフガン、カブールの状況それからああいうタリバンが石窟を爆破した問題とか、それこそ望遠鏡で眺めるてるような破壊、殺りくの、そういう寒々しい映像しかアフガンは紹介されてないけども土本さんの『よみがえれカレーズ」には緑が豊かなオアシスの中に人が暮らし、女性たちもいろいろインタビューに応じてくれて本当、息づかいを伝えてくれています。11月いっぱいモーニングでやるので是非この機会に僕ももう一度観たいと思います。ご覧になってください。せっかくの機会ですから何か聞いてみたいと言うことがある方は遠慮なく手を挙げてください。ちょうどいいこうやって顔と顔とが見える会場なんで。

お客様
 あのいろいろと話をありがとうございました。とても楽しく聞けました。今日の上映された映画についてちょっと質問したいんですが、いいでしょうか。梅香里の基地というか射爆場の周りを防衛していた若い韓国軍の人でしょうか。それと大使館の前にも楯を持ってデモというか集会を邪魔してた人たちっていうのは韓国の軍の人たちなんでしょうか。徴兵制があって、いわゆる一般の若い20代の男の人は全員徴兵制で軍隊の兵役を受けていると思うんですけど、そういう人たちが行ってるのか、その辺の若い韓国の人たちはどういう人たちなのか。それとあれだけのカキを拾って美味しそうでしたけれども汚染されてないのかどうかとても心配になりました。もう一つは今、テロの後、基地やその周辺で色んな動きが出るんじゃないかと思うんですけれども韓国の梅香里でもいいし、沖縄でもいいしもしご存じのことがあったら伺いたいと思います。

西山
 まず一つ、韓国徴兵制は27才までに徴兵、2年間と2年半これは陸軍と空軍の違いですね。で、徴兵されていきます。ああやっていつも住民の全面に出されるのは軍隊に入ってああいう若い人が全面に立たされるんですね。だからそれが軍がどういう目的でやってるかということでそれは想像するしかありませんけど本当に徴兵されて入ったばかりの青年たちがああいう一番全面に出される訳ですね。で、あのマイナス10度の寒い中を彼らはあそこで射爆場の中に入って、つまり住民を入れないようにして、あそこで見張りをしているわけなんですね。それはやっぱり、なんで米軍の射爆場のね日本の米軍の基地を自衛隊に守らせるというか本当に政府のやってることは信じられないことをやりますね。どっちに顔を向けているんだってことを思いますね。それから汚染の問題については全晩奎さんが昨年まで孤軍奮闘してたんです。1988年に住民放棄が起こったんですよね。それをグワッと弾圧されて以後、モノも言えない時代がずっと続いてそれがやっと昨年、ああいう大衆闘争になったわけですね。それはなぜなったかというと、本当にやりたい放題の米軍に対してもう我慢が出来ないんだという限界を超えたんだと思いますね。それが5月に始まって230Kg爆弾を6こも落としたわけですね。それによって梅香里の地なりがするくらいに、窓ガラスが割れたりとか。壁にひびが入ったりとか、事故がものすごい規模で起きたんですね。それに対しても米軍と韓国の政府が合同調査団を作ったけれどもつまり、住民に被害はなかったという報告書があって、すぐ1ヶ月後に訓練の再会を始めたんです。もう、韓国の人たちが怒るのは当たり前だと僕は思いますね。南北首脳会談があったのは6月ですから発表されてそれが大きく後押しをしたんですね。で、人間の鎖といって沖縄から学んでいるんです、彼らは。沖縄以上なのはカッターを持って有刺鉄線を切ってしまうことなんです。あの辺がうちなんちゅうとは偉い違いだと沖縄の人は言っていますけど。日本で言えば三里塚闘争とかね。そういうことを想起させるかもしれないけどもやっぱり50年ぶりに地元の住民がこの問題について立ち上がったというのが一つですね。それと女性たちがやっぱり見ててもそうですけど中心になってやってね。権力に対して向かっていってるというのを、だからそういうことが昨年までの状態がそうですからお金もない全晩奎さんは自分の自宅を売り払ってですね、公民館に間借りをして住んでるんですね。で、本当に子供さんが18才と16才の子供さんが僕らと顔を合わせることもなかったです。とうとうね。だから親をどういう気持ちで見てるんだろうということを僕はすごく思いましたね。だから自分はなんでこんなに貧乏しなきゃいけないんだとか、なんでこんなにアホ呼ばわりされてまでやらなきゃいけないんだとかね。そういうきっと悲しい思いをしてると思いますね。そういう状況の中で確かにああいう風に試練を受けて状況は少しは変わったとは思いますね。だからお金もないつまりああいうことに対して全晩奎さんは梅香里の人でさえやっぱりお金を出すことをしないという現実があるんですね。ましてや韓国社会の中でやっぱりアメリカに対して物を言うこの問題に関しては環境だとか福祉だとか教育だとかそっちの方で集まるお金はこういう問題に関わっている人たちのところには来ない。だから駐韓米軍犯罪根絶運動の女性たちが本当に僕らが想像出来ないくらいの毎週金曜日に集まってああいう本当にすごい戦いを僕はやってると思う。そういう状況が韓国にありますから環境調査をすることさえも大変なんですね。本当は心配です。そりゃあ、あれだけの爆弾が打ち込まれていて鉛の問題がありますね。それから劣化ウラン弾も使ってるんじゃないかというA10という戦闘機はそれも使える装備を持っていますから使ってるかもしないですね。でもね、土曜日しか入れないってことはもうそれで採って生計を立てるということにいっぱいの状況があるんですね。ということがあって、今から日本の人たちが色んな形で梅香里の人たちのことを支援するんであればね、こちらから環境調査を出来る人、とかそれに使うお金だとかそういう風に支援していく方法はいろいろあると思いますね。だからまずは本当に梅香里の住民の健康調査が必要だと僕は思いますね。それともう一つありましたね。テロ以降のことを言えばですね。テロ以前の話になりますが、今年の7月に沖縄でこの映画の上映を始めたんですね。僕にとっては沖縄っていうのは本当に切っても切れない思いを持った場所ですので沖縄からやりたいということで佐喜眞美術館で試写会をやって7月に佐敷町でウォン・ウィンツァンさんのピアノコンサートを一緒にですね。その時韓国から鄭柚鎮さんが、彼女は昨年6ヶ月間、沖縄大学の研究員として留学をしてたんです。米軍基地前でインタビューをしてたあの彼女が7月の上映会で舞台で挨拶をしたときに「私たちはこういう不幸な事件、つまり北谷町で起きたレイプ事件、不幸な事件が起きたときにしか声を挙げられない、私たちの平和運動は変えなければいけない」と沖縄の人たちに伝えたんですよね。沖縄の女性の人たちがそれを受け取ったんです。8月3日の金曜日からアメリカの総領事館前で金曜集会を始めたんです。これはどこの団体に属しているとか、組織も何もない女性たちがやんばるとかね。北部の方からとか名護の方とか宜野湾とか佐敷町だとか色んな人たちが来て午後12時から1時間ですけどそこで集まって活動を始めたんですね。それは韓国とはやっぱりなんて言うか様相は全く違いますね。韓国の方が状況がせっぱ詰まってるから非常にメッセージがはっきりしていますけども、もちろん沖縄もはっきりしていますよ。でもそこで各地域の状況を伝え合ってそうやってだんだん人数が多くなって来ていて僕は先週の金曜日に金曜集会を立ち会って来たんですけどそこでワシントンからアメリカの女性たちが中心になってテロの問題について報復してはいけないということを世界で共同で行動しようという提案がインターネットで沖縄にも入ってきて28日の金曜集会で牧志よしかずさんという建築家がそこで提案したんですね。そうしたら翌日のキャンプフォスターの前に80人が集まったんです。その集会も本当に何かとても人間味があって、いい、僕は行動だったと思います。それは僕はビデオを持って行ったんでその行動は全部撮影しました。まあ、本来なら今日、少し短くして見てもらいたかったと思うんですけども、まあ、実際に沖縄で今、何が起きているかというと観光客がどんどんキャンセルが相次いでいますね。それは僕らが東京にいては伺い知れない沖縄のそういう事情がやっぱり現地に行くと僕は深刻だと思いますね。でも金曜集会に集まった人たちはそのくらいしないとうちなんちゅうはわからんさーという言い方をしてますけどもつまりそういう風にならないと辺野古の沖にね新しいヘリポート基地を作る問題なんかも実は沖縄の住民がそれを認め始めてますから、そういう問題について沖縄の人間自身が気がつかなければしょうがないということを彼女たちはもっと考えてほしいということを言ってましたけども、でもそれはそういう気持ちが半分、でも観光客が減ることも深刻な問題だからそのへんはとても複雑な気持ちだろうという風に思いますね。
 今回のテロっていう問題については、僕はやっぱり土本さんにずっとドキュメンタリーを作ることで見てこられた目線で今、一番というふうに土本さんが捉えて感じておられるかをちょっと聞いておきたいなと。

土本
 あの非常に妙なことを言いますけども最近のビンラディンの顔をね見てますとこのような犯罪をする人があれだけはっきり顔を出す筈はないと、つまりどこかでアジテーターである○○ではあるけれども犯行とは結びつかないというのが一つと、最近僕はシェイケバラ?の顔をビンラディンの顔との共通性を見てしようがないんですね。つまりあれが本当に私利私欲に固まった凶悪な人間の顔というふうにはどうも思えない。それから同じアフガンですけども9月9日に北部で殺されたマスードという人がいます。あの生きていれば北部同盟といわれるところの一番、最高の将軍だと思いますけれどもアフガンの内戦の時、パンシュウ渓谷という国内に留まってさっき話に出た日本人の医療家、中村哲さんじゃないけれどもそこの人々と一緒に医療活動をしたりして自分のテリトリーをまあ、部族民ですね。それでがんばった人が殺された。その人の顔が非常にいいんです。やっぱり戦後ですね。何人かやっぱり第三世界を守る人々の顔の中で僕は嫌いな顔じゃない。これは困ったもんです。すみません。彼はどういうふうにしていくかというと思います前に僕は今度のテレビで状況を見ましてね、またナンパなことを言います。見事なことに体が震えました。あのビルにすくむ、的確に突っ込んでいく1機目、それから時間をおいて注目の中で突っ込んでいく2機目。そしてペンタゴンとですね。それがたったナイフとカッターナイフをね持ったアメリカでパイロットの訓練を受けたあまり金持ちそうもないあまり凶暴そうでもないちゃんと○○のアラブにいる何人かによって仕組まれてやはり我々の目の前にあれだけの事件をテロを作ったってことのね。僕はもちろん大量殺人というのはいけないと思います。しかしながら大量殺人はね20世紀の後半にいやって言うほど見ました。アメリカの手による大量殺人もいろんな形を見ました。例えば今度のビルの中の6000名をいいますとやはり彼らの目から見たら世界を操っている一番の牙城に勤めているホワイトマンたちあるいはそれに準じた人たちというんで敵の巣に見えたとしても彼らとしては攻めるに当たらない。敵の巣の中に突っ込むということの方がやはり大事なモーメントだったというふうにだからあの事件を手をたたいて喜び、ヒーローとして喜ぶという人民が確実にいるってことです。好き嫌いじゃなくているってことです。まあ、そういった意味でやはりこの問題はずっとテレビをみてるといつもブッシュとアメリカの動きとビンラディンの動きが対局で出てきますけどその背景を見ますとブッシュの動きの背景にはアメリカの政府の中枢があり反映の中枢があり、世界にばらまいた騎手の中枢が映ってます。ビンラディンはいつもバックにひげもじゃの何人かと○○にいるみたいなもう途中がないです。やはりこういったことも今のどうしようもない現実の中でなぜテロが生まれたかなぜあれだけビンラディンヒーローになり得ているのかどうして金に換えない命を元にしてあれだけの17名を決行するものが生まれたか、本当に一つ何十万ドルとする機械じゃなくてたった100円か200円のナイフですね。それから非常に安いパイロットの講習料を計算して彼らがあれだけ声をひそめて自己主張もしないで何か突っ込む前には残った貯金の40万円分か何かを組織に返した。そして飛び立っていくと。これがパレスチナとか色んなところのエジプトなどにある原理主義といわれている人たちのこの人たちも勉強しなくてはいけないですね。原理主義ってのは1920年代に生まれてるんですがそれはロシアの革命のイスラムにおける衝撃として生まれてるんですから原理主義というのは。やはり近代化をしていく遅れた国において儲けるものは儲けていくという自分の部族でも聖職者でも儲けていくと不平等をなくしてゆくという青年たちを組織して生まれたっていう源流があるんですね。そういった人たちから見れば今度の事件はなんのかんのと言おうとやはり一つの20世紀の残した大きな富のグローバリズムと貧困のグローバリズムのやはり激突だとしか僕には思えない。これを解釈するにはやはり時間がかかると思ってます。だからテロの根源は間違いなく貧困にあります。貧困と飢えと不平等にあります。やはり彼らがパレスチナ問題などを見てきた長い間のあるヴィン?に対する屈辱、それから湾岸戦争の時における屈辱ですね。そういったものを繋げてみれば僕は今の時流に対して大きい声を挙げないで黙ってやはり分析しなきゃいけない。ここで自衛隊を出せるかどうかといってピーピー、パーパー言ってる時代じゃない。やはりじっと考えて日本は本当に飢えた南の世界、やはり我々が見落としてはいけない貧困の世界ね、イスラムの世界を含めてじっと見つめて考えて物をいう時期に来たなと思っている。ビンラディンがすてきな男だという人もいるかもしれませんけど僕はあの顔好きですね。これは、(笑)あのどうしようもないです。あの、撮影したいです(笑)。

西山
 ビンラディンに似てる‥‥‥それで今日は剃って来たんですけどね(笑)。短くしてきたんですけど(笑)。僕がね、実は沖縄に普天間基地を返します。その代わり辺野古の沖にヘリポートを作ります。っていうことをやってますね。県民投票を実施したのは日本中で沖縄だけなんです。市町村の住民投票はありましたが県民投票をやったのは沖縄だけなんです。名護の市民投票もNO!を言った。基地の整備縮小、地位協定の変更を求めたんですね。ことごとく保護にしてきたんです。この国は。僕は今回のテロ問題に関して言うなればこれだけ沖縄を無視し続けてきたら沖縄からテロを働く人が出てくるかもしれません。つまりそういう問題だと僕は考えたんです。本当に冷静に日に日になってきてるからうれしいんですけども、本当に下手すると取り返しのつかない事態に世界が陥ってしまう危険を孕んでいますよね。そういうことに乗じてこの国の政府は何をしてるかっていうとあの国会なんかもヒステリックにやってるだけなんですよね。自衛隊を出す、海軍も持たない判断のあの海になぜ日本の海上自衛隊が出ていくというのかということですよね。なんで日本の中の米軍の基地を日本の自衛隊が守るかと言うことですよね。つまり国民に向けて銃を向けてるということですね。ということについて僕たちは本当に敏感にならなければならないとすごく思われますね。きっと今日、テロの問題について話したいという人がたくさんいると思うんですけどもそれは今、沖縄に行っても福岡でやってもどこへ行ってもこの上映会を通してですね、そういう話に自然に入っていきますね。僕たちが今、何が出来るかって言えば、本当無力かもしれないけど、声を出してゆく以外にないっていうことを僕自身は思っています。これは韓国の米軍基地を巡る人々の問題を描いていますけど、僕は根っこは同じだと思っていますので、本当にあちこちで声をかけて映画が見られていき、こういう話し合いが出来ることを願ってます。今後ともどうぞよろしくお願いします。それから今日も在日っていう映画、僕も福岡で600人入れる上映会をやったんですけど、是非ともこれもご覧になってほしいなと思います。それからこの映画の中にトレヴァンというところが出てきましたけれどもあそこの女性たちがああやっていろんなグッズを作ってるんですね。この上映を機にあそこから日本で売れれば売ってですねそれをむこうに送ってあの人たちの自立を援助していくということをやっているのでマグネットを買って支援していただければと思います。それでは土本監督、ありがとうございました。


出席者プロフィール:土本典昭(つちもとのりあき)

◇1928年 岐阜県に生まれる。父善平の内務省勤務のため上京。
◇1946年 早稲田大学入学。大学では全学連副委員長。
◇1954年 日中友好協会事務局に就職。
◇1956年 岩波映画に臨時雇員として入社。 映画監督・羽仁進、カメラマン・瀬川順一、編集者・伊勢長之助の薫陶をうける。
◇1957年 退社しフリーとなる。
◇1960年 羽仁進作品「不良少年」の監督補佐、[彼女と彼」(1963)と「ブワナ・トシの歌」(1965)では編集をつとめる。
◇1961年 黒木和雄、岩佐寿弥、大津幸四郎、小川伸介など岩波の映画人を中心に“青の会”をつくり、作品の合評、研究をすすめる。
◇1963年 国鉄の安全PR映画「ある機関助士」を作る。これが初監督作品となる。
◇1965年 日本テレビ「水俣の子は生きている」は胎児性水俣病の初めての記録となる。同年、アジア留学生の闘いを描いた「留学生チュアスイリン」を作る。
◇1968年 「シベリア人の世界」は西側初のシベリア横断の記録だった。
◇1969年 黒木和雄監督「キューバの恋人」の製作。 京大全共闘、滝田修を描いた「パルチザン前史」を作る。
◇1971年 「水俣−患者さんとその世界」を制作。その後「水俣一揆」(1973)「不知火海」(1975)[水俣病20年」(1976)など16本の水俣作品を作る。
◇1972年 ストックホルムの第1回国際環境会議に水俣病患者・カネミ油症患者と出席。世界に"公害病"の存在を映像で知らしめる
◇1975年 カナダインディアンに水俣病が発生したのを知り、水俣映画をもってカナダへ飛び、100日に及ぶカナダ横断上映旅行を行う。テレビドキュメント「水俣病とカナダインディアン」(日本テレビ)を発表。
◇1976年 カナダの国際環境会議のためインドのスラム取材をし、報道規制でフィルムと機材を 強制保管され、3日間軟禁される フィルムなしで国際環境会議に出席後、カナダでの水俣映画巡回上映を行う。
◇1977年 スタッフの一之瀬正史、小池征人、西山正啓らと不知火海巡海映画班を結成し、100日間不知火海沿岸の集落を巡海上映。
◇1979年 中野重治の葬儀の記録「偲ぶ・中野重治」を作る。
◇1982年 新聞記事と小沢正一の語りで「原発切抜帖」を作る。
◇1984年 原子力行政と漁業者の攻防を描いた「海盗り-下北半島浜関根」 「はじけ鳳仙花-わが筑豊 わが朝鮮」富山妙子の画業をルーツを描く。
◇1985、86年 アフガニスタンへ取材。89年「よみがえれカレーズ」を完成。
◇1992年 北海道オホーツク沿岸、ロシア、北方四島、オホーツク海を調査。
◇1994年 2月「存亡のオホーツク」をNHK ETVで二夜連続放映。11月から水俣病の死者の遺影収集のため1年水俣に滞在。水俣、津奈木、芦北、田ノ浦、鹿児島東町の遺族を訪ね歩き500柱集める。
◇1996年 8月ユダヤ人絶滅収容所の記録『ショア』のクロード・ランズマン監督と「二つの世界の映画を観る」の上映会を開催。
◇1998年 ドキュメンタリー映画を志す若者たちとドキュメンタリー研究会を自宅ではじめる。     
◇1999年 5月川本輝夫の死を悼んで、胎児性水俣病の患者11名と宮崎川崎航路のフェリ−で「川本輝夫記念・洋上ツアー」を挙行する。同年8月、ビデオ「回想 川本輝夫-ミナマタ井戸を掘った人」 を作る。

[主な著書]
「映画は生きものの仕事である」(1974年/未来社)・「逆境の中の記録」(1976年/未来社)・「わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録」(1979年/筑摩書房)・「水俣映画遍歴」(1988年/新曜社)・「ドキュメンタリー映画の現場」共著(1989年/現代書館)・「されど海 存亡のオホーツク」(1995年/影書房)


土本典昭監督のホームページ