パンフレットより

■「ゴンドラ」に --- 原・生命を湛える水の深み --- ‥‥‥ 映画評論家 石原郁子

 
 映像はのっけから危険なほどに美しい。光の塔を思わせる高層ビルを見上げ、見下ろす眩暈に似た感覚。そして、窓を拭く青年の眼下に広がる都市の街路が、みるみるきらめく水を湛えた青い海に重なってゆく。この水のイメージは全体を貫いて、あるときは初潮を迎えた少女の孤独な揺らめきを飛沫
(しぶき)の向こう側に透かし見せるプールであり、食器をつけた流しの水であり、彼女が水着を洗う石鹸液であり、一人飲むミルクであり、その心に揺れ動く風景もまた、一瞬水中世界のように見える。更にそれは、流しや浴室で小鳥の死体の匂いに向けて迸(ほとばし)る洗い場であり、音叉の波紋を広げ、少女が絵筆を洗う、グラスの水であり、少女と青年とを濡れそぼらせる雨であり、青年の母と少女とが暖かく背を流し合う風呂の湯でもあるが、何よりも青年の故郷である貧しい過疎の漁村の、驚くほど濃い青い海であって、そう言えば島国である私たちの国では、水は本来、こんなふうに生命の底から切ない叫びに応えて、彼方から清冽に呼び返す、巨きな胎としての深さなのだったと気づく。
 自閉症のように級友たちから距離を置く、孤独な少女。だが彼女は意志的な強い瞳をもち、音叉を耳に当てて自身の内側の声を聴き、確かめようとし、あるいはおそらくそれに共鳴する響きを掴み当てようともしている。いずれにせよ彼女の内にあるのは虚無や自棄ではなく、余りにたやすく片づけられ忘れ去られてゆく何かへの、ほとんど怒りを含んだ拘
(こだわ)りであり、それは死んだ文鳥の生命や、その生命を静かに抱き取るものへの拘りに繋がってゆく。その拘りは、青年のもうひとつの孤独を揺さぶり、二人はお互いを通してそれを貫く途を探し、そして、自分たちの心とからだのすべてを使って、いっときでも純粋に、それを完成させるのだ。冒頭で、孤独な都会の海に一人を乗せて浮かんだコンドラは、終景で死者たちが波に心を託して生者を守ってくれるという故郷の海の、金色の夕日の中に、二人のほのかに触れ合う心を乗せて漂う。それはまた、自身の内に流れ始めた生命の潮流を知りつつ、それに向き合うすべをもたなかった少女が、それへの慈しみを学び、その源を見出した旅ともいえるかも知れない。
 浄める水。癒す水。原・生命を産み、育み、生命の終わりにそれを解体し、融合し、永いときのうねりの果てに運び去る水。しかしこの映画は、そうした水の自らのもつ力に甘えてはいない。この映画はどんなときにも甘えない。心象の象徴めいて揺らめく風景は、ときに流麗すぎる感傷に陥るかに見えて、表現することに対する虚心な慎み深さの内に、きっちりと抑制される。主人公たちの、そしてその背後に佇
(た)つ若い作り手たちの、忙しすぎる時間の落とし物を凝視し、丹念に一つ一つ拾い上げてゆくような、寡黙なまなざしには、あらゆる価値が迷彩の中に急速に見失われゆく現在にあって、頑なに守らなければなたないものが、確かに見えているようなのだ。流行の<監督第一作群>の、巧妙な<新感覚>の安易さや調子のよさから、この映画はもっとも遠く、水の力はむしろ、彼らの不器用で永つづきする素朴な意志によって救われ、もう一度回復される。
 そして、甘えない映画はまた、押しつけることを好まない。少女と青年との抱える拘りについて、映画はなにも言葉で説明するわけではない。おなじように、いじめあるいは現在教育の欠落させている部分について、娘と心を通わせられない母について、あるいはその母にも例えば赤い弁当箱に秘められた自己の思いがあることについて、少女を故郷に連れてゆく青年の決意について、「帰りたくない」と言う少女に「どんとはれ」と答える青年の気持ちについて、映画は説明しない。部屋の照明や蝋燭の灯り、車灯など、水とともに全体を貫くイメージである光。繊細な音楽と印象的な効果音、そして更に印象的な無音・半音のシーン。ブラインドやモビール、模型の漁船などの小道具、とくに、光と水とをそのきらめきで繋ぐ、さまざまなガラスの器やオブジェ、破片。そうしたものたちだけが、直截に私たちの胸に何かを伝え、大切なことは安易に言葉にされない。満ち足りているはずの私たちに周囲に、これほどの暗黒や哀しみがあることに、いっとき頭を垂れて佇みながら、それへの思いを深めることや解決を模索することは、私たちの一つ一つの心に委ねて、映画は何よりの誠実さとして、ただ静かに透明にある。
 あるいはそのことはまた、美しいものにそのうえ過激なドラマは要らない、という確認でもある。愛らしさをはにかむようにパンツルックに実を包んで、男の子のようにぶっきらぼうに話し、ふるまう少女と、弱い者が優しいと言い、その優しさを敢えて今、自分に取り戻そうとする青年。彼らのあいだには、からみ合うエロティシズムの危うさははじめから存在しない。ただ支え合って同じ方向に進む、ひたむきな浄らかさがあるだけだ。彼らの性の状況を期待し、それが見えないことを作品の欠陥とする考え方がもしあるとすれば、性はなくてはならない重大なものでは別になく、もっと大切なものが語られるときには、性がいとも軽やかに飛び越えられてしまう瞬間もあるのだ、とだけ言っておこう。ここでは、ないことは欠陥ではなく、むしろ豊さの表れなのだ。烈しく氾濫する豊かさではない、ひそやかに人の内奥に滲み入り、ゆっくりとときをかけてそこに満ちてゆく、澄んだ潮のような豊かさ。
 これは頭の中で考え出された物語でなく、物語が自身の力で作り手たちの内部にはっきりと立ち現れるのを待って、母が子を産むときのように、それを重み、痛みとして引き受け、もちこたえながら、丹念な優しさで産み出された作品なのだろう。映像は静かだが、真剣な力に満ちて、繰り返し私たちを呼び戻し、幾度見返してもそのたびに、この至上の瞬間がいつまでも終わらないで欲しいという思いにさせる。多くの日本映画では、流れるクレジットの最後に、監督の名がいとも印象的に静止して幕となるのだが、この作品では、監督の名も他のスタッフ、キャストの名とともに流れてゆく。この見事な志の高さ。稚拙で舌足らずでときに苦しいほどの正攻法の中に、創出するものの王道をゆく、丈高い姿勢が輝いて見える。