我が母校 女子学院 懐かしの旧本館 チャイムが聞けます♪ 讃美歌301番(山べにむかいて)
本館玄関ホール
講堂にあがる南階段
旧講堂 放課後はよくこのピアノでバッハやビートルズを弾きました。 舞台の奥から薄暗い階段を上がると、小さな部屋(秘密の隠れ家と呼んでました)がありました。 よく読書に出掛けたものです。
このステンドグラスだけ新講堂に移築されたそうです
後ろドアの丸窓から講堂のなかが覗けました
↑この落ち葉は卒業式の日に 正面玄関前で拾ったもの
南館
中庭
はい、たいへんよく呼び出されました (^ ^;)
カラー写真は 目で見る 女子学院の歴史 1870〜1992 <女子学院資料室委員会 編集> の「思い出の校舎」から転載させていただきました。
どの写真もダウンロードしていただくと大きなサイズで見ていただけます
入学要項に入っていた学校案内から
余談ですが、1985年8月に、私のプロデュース第一作「ゴンドラ」で、 JGの旧講堂2Fエントランスホールを撮影に使わせていただきました。 (木内みどりさんと出門 英さん演じる)夫婦が、行方不明になった子どものことで相談待ちをしている無言のシーンにお借りしました。
大島孝一 元院長 (当時 戦後補償実現市民基金代表) が朝日新聞に書かれた署名記事です。
2000年4月24日 朝日新聞 女子学院中高元校長 大島孝一 「自分と出会う」 1995年12月、初めて中国・南京を訪ねた。その時、宿舎に旧知のH博士の訪問を受けた。 久しぶりの挨拶ののち、あの南京大虐殺のとき、私がどこにいたか、と問われた。'16年生まれの私は、事件のそのとき、既に満二十歳の徴兵適齢に達していたので、H博士は日本人である私に軍隊関係があったかどうかを尋ねようとされたのであろう。 事件当時の'37年は、別の意味で私にとって忘れられない出会いがあって、私はそのことを語った。いわば、アリバイを説明したことになるのだが、博士「それはよかった」と満足げであった。 '37年4月、私は仙台の大学に入学した。その頃は、「在学徴収延期」の適用によって、卒業まで徴兵が猶予されるのであった。ところで、同じクラスに中国―当時、中華民国―からきた留学生のC君がいて、彼と私はクリスチャンであることをお互いに知り合って、親しく話をするようになった。上海での日本の軍隊―それは、海軍陸戦隊が主であったはずだ―が非戦闘員である住民に対してどんなに非道なことをふるまったか、彼は縷々(るる)と語った。 私は、残虐行為の数々を聞くに堪えなかった。日本の軍国主義を批判するだけの見識こそなかったが、私はC君の話が決して嘘でも誇張でもないことを信じていた。しかし、私は彼の物語に同意する代わりに、「悪かった、ごめんなさい」と、日本の軍隊の非行を謝るつもりで口走った。ところが、C君は、「きみが謝ることではない、きみは僕の話をもっとよく聞いて欲しい」と私をたしなめた。 そのとき、謝ったのではなく、実は彼の口を封じようとした私を彼は許そうとしなかったのだ。 その12月になって、「南京陥落」を祝う提灯行列が仙台の町でも繰り広げられた。私はその夜、C君の下宿を訪ねて、町の騒ぎをよそに、遅くまでいくばくかの議論をした。さきのH博士の質問に答えたのは、そのときの場面であった。 C君は、在学中ばかりでなく卒業後も大学に残って、戦時中も戦後もさまざまな苦労を強いられたようだ。私と彼とのつきあいは、当初は喧嘩をしたり、仲直りしたりという関係が続いた。 私はC君のいわばメッセージを十分には受け止めることができなかった。私はありきたりの日本人と同じく、民族や国家にこだわることが多く、素直に彼の言葉を聞く耳を持とうとしなかった。彼は、中国人であることのアイディンティーを保持しつつ、国境を超えた人間同士の交わりを求めていたのではないだろうか。 いま、私は若い友人たちの勧めで戦後補償を求めるグループのいくつかとつきあっている。 ときたま見聞きするのは、例えば韓国のハルモニ(おばあさん)が騙されていわゆる「従軍慰安婦」とさせられた無念と憤りをぶっつけても、日本の官僚は無表情に聞き流し、首相や閣僚などが、冷ややかな言葉で「謝罪」めいた発言をすることがある。 しかし、日本軍による被害を受けた人たちは、その空疎な言葉の欺瞞を直感的に感じ取るのである。それは、「悪かった、ごめんなさい」と言って友人の口を封じようとした私の態度と異なるものではなかった。 日本政府が一貫して戦争責任を認めようとしないのは、ちょうど私が友人の忠告を聞くのを避けようとした心理そのものであることに気がつく。 私たちの戦後補償を求める運動は、私たち自身の変革を促すものである。 ------------------------------------------------------------------ 上記記事についてこう書かれてあるホームページがありました。 以下は、(有)オフィスYMZK (私立中高一貫教育校を中心とした教育情報満載のページ)の記事から。 女子学院元校長の清々しい発言(2000年7月号) 女子学院中(千代田区)の社会科の入試問題は一貫して憲法擁護(改憲反対)を強く打ち出していることがよく知られている。今春も「自自公連立」についての良問(難問)が出た。これらの出題方針はそれがまさに一貫して続いているところから見ても、明らかに個々の教師や社会科一教科だけの方針ではない。多くの教職員から支持された全学的な方針だろ。 そのことを伺わせる一つの記事(文章)が四月二十四日の朝日に出た。筆者は女子学院中高元校長の大島孝一氏(八三才)である。大島氏は「戦後補償実現市民基金共同代表」として「自分と出会う」というコーナーで以下のように書いている。西尾・藤岡氏一派や石原都知事らの毒々しいデマを連日読まされ、それを批判せずむしろ弁護しているマスコミ論調に接して、当方はいささかウンザリしていた。しかしこういう文章を読むと清々しい気持ちになり、勇気が湧いて来る。 大島孝一先生の著書紹介 「 戦争のなかの青年 」 岩波ジュニア新書 刊 戦争はいつの時代にも、青年を戦場へ送り、多くの若い生命を奪ってきた。二度と故国の土を踏むことのなかった青年が家族・友人にあてた手紙や手記を収める『きけわだつみのこえ』『戦没農民兵士の手紙』などから戦争の無残さ、軍隊の理不尽さを伝え、再び青年が戦争に駆りだされないために、いま何をなすべきかを考える。 大島孝一 おおしま-こういち 1916−2012 昭和後期-平成時代の平和運動家。 大正5年12月7日生まれ。福岡管区気象台に勤務中に徴用され,陸軍の気象班員となる。戦後,岩手大助教授をへて,昭和41-55年東京の女子学院院長。「戦没農民兵士の手紙」編集に参加したほか,日本戦没学生記念会(わだつみ会)常任理事,キリスト者政治連盟副委員長などをつとめた。熊本県出身。東北帝大卒。 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E5%AD%9D%E4%B8%80 大島孝一先生の訃報 <キリスト教新聞より> おおしま・こういち=元女子学院院長。2012年8月27日逝去、95歳。葬儀は8月30日、日基教団西千葉教会で行われた。喪主は妻の静子さん。 1916年、熊本県熊本市出身。40年東北大学理学部物理学科卒業。福岡管区気象台勤務。その後、東北大学理学部地球物理学教室、岩手大学学芸学部などを経て、66年女子学院院長就任。日本キリスト教団常議員、同靖国神社問題特別委員長を歴任 在りし日の大島孝一先生 2007年10月7日、 池袋の台湾料理屋「新珍味」に集まった「台湾の政治犯を救う会」のメンバー、台湾から?の五人の青年と二人の先生。 「台湾は忘れない」の名の下に集まり、台湾の民主化のためにご尽力いただいた日本の友?への、溢れんばかりの感謝の気持ちでいっぱいです。 ここに、大島孝一氏への感謝の意を込めまして、こちらの映像を奉げます。
2000年4月24日 朝日新聞 女子学院中高元校長 大島孝一 「自分と出会う」 1995年12月、初めて中国・南京を訪ねた。その時、宿舎に旧知のH博士の訪問を受けた。 久しぶりの挨拶ののち、あの南京大虐殺のとき、私がどこにいたか、と問われた。'16年生まれの私は、事件のそのとき、既に満二十歳の徴兵適齢に達していたので、H博士は日本人である私に軍隊関係があったかどうかを尋ねようとされたのであろう。 事件当時の'37年は、別の意味で私にとって忘れられない出会いがあって、私はそのことを語った。いわば、アリバイを説明したことになるのだが、博士「それはよかった」と満足げであった。 '37年4月、私は仙台の大学に入学した。その頃は、「在学徴収延期」の適用によって、卒業まで徴兵が猶予されるのであった。ところで、同じクラスに中国―当時、中華民国―からきた留学生のC君がいて、彼と私はクリスチャンであることをお互いに知り合って、親しく話をするようになった。上海での日本の軍隊―それは、海軍陸戦隊が主であったはずだ―が非戦闘員である住民に対してどんなに非道なことをふるまったか、彼は縷々(るる)と語った。 私は、残虐行為の数々を聞くに堪えなかった。日本の軍国主義を批判するだけの見識こそなかったが、私はC君の話が決して嘘でも誇張でもないことを信じていた。しかし、私は彼の物語に同意する代わりに、「悪かった、ごめんなさい」と、日本の軍隊の非行を謝るつもりで口走った。ところが、C君は、「きみが謝ることではない、きみは僕の話をもっとよく聞いて欲しい」と私をたしなめた。 そのとき、謝ったのではなく、実は彼の口を封じようとした私を彼は許そうとしなかったのだ。 その12月になって、「南京陥落」を祝う提灯行列が仙台の町でも繰り広げられた。私はその夜、C君の下宿を訪ねて、町の騒ぎをよそに、遅くまでいくばくかの議論をした。さきのH博士の質問に答えたのは、そのときの場面であった。 C君は、在学中ばかりでなく卒業後も大学に残って、戦時中も戦後もさまざまな苦労を強いられたようだ。私と彼とのつきあいは、当初は喧嘩をしたり、仲直りしたりという関係が続いた。 私はC君のいわばメッセージを十分には受け止めることができなかった。私はありきたりの日本人と同じく、民族や国家にこだわることが多く、素直に彼の言葉を聞く耳を持とうとしなかった。彼は、中国人であることのアイディンティーを保持しつつ、国境を超えた人間同士の交わりを求めていたのではないだろうか。 いま、私は若い友人たちの勧めで戦後補償を求めるグループのいくつかとつきあっている。 ときたま見聞きするのは、例えば韓国のハルモニ(おばあさん)が騙されていわゆる「従軍慰安婦」とさせられた無念と憤りをぶっつけても、日本の官僚は無表情に聞き流し、首相や閣僚などが、冷ややかな言葉で「謝罪」めいた発言をすることがある。 しかし、日本軍による被害を受けた人たちは、その空疎な言葉の欺瞞を直感的に感じ取るのである。それは、「悪かった、ごめんなさい」と言って友人の口を封じようとした私の態度と異なるものではなかった。 日本政府が一貫して戦争責任を認めようとしないのは、ちょうど私が友人の忠告を聞くのを避けようとした心理そのものであることに気がつく。 私たちの戦後補償を求める運動は、私たち自身の変革を促すものである。
------------------------------------------------------------------ 上記記事についてこう書かれてあるホームページがありました。 以下は、(有)オフィスYMZK (私立中高一貫教育校を中心とした教育情報満載のページ)の記事から。 女子学院元校長の清々しい発言(2000年7月号) 女子学院中(千代田区)の社会科の入試問題は一貫して憲法擁護(改憲反対)を強く打ち出していることがよく知られている。今春も「自自公連立」についての良問(難問)が出た。これらの出題方針はそれがまさに一貫して続いているところから見ても、明らかに個々の教師や社会科一教科だけの方針ではない。多くの教職員から支持された全学的な方針だろ。 そのことを伺わせる一つの記事(文章)が四月二十四日の朝日に出た。筆者は女子学院中高元校長の大島孝一氏(八三才)である。大島氏は「戦後補償実現市民基金共同代表」として「自分と出会う」というコーナーで以下のように書いている。西尾・藤岡氏一派や石原都知事らの毒々しいデマを連日読まされ、それを批判せずむしろ弁護しているマスコミ論調に接して、当方はいささかウンザリしていた。しかしこういう文章を読むと清々しい気持ちになり、勇気が湧いて来る。
------------------------------------------------------------------ 上記記事についてこう書かれてあるホームページがありました。
以下は、(有)オフィスYMZK (私立中高一貫教育校を中心とした教育情報満載のページ)の記事から。
女子学院元校長の清々しい発言(2000年7月号)
女子学院中(千代田区)の社会科の入試問題は一貫して憲法擁護(改憲反対)を強く打ち出していることがよく知られている。今春も「自自公連立」についての良問(難問)が出た。これらの出題方針はそれがまさに一貫して続いているところから見ても、明らかに個々の教師や社会科一教科だけの方針ではない。多くの教職員から支持された全学的な方針だろ。 そのことを伺わせる一つの記事(文章)が四月二十四日の朝日に出た。筆者は女子学院中高元校長の大島孝一氏(八三才)である。大島氏は「戦後補償実現市民基金共同代表」として「自分と出会う」というコーナーで以下のように書いている。西尾・藤岡氏一派や石原都知事らの毒々しいデマを連日読まされ、それを批判せずむしろ弁護しているマスコミ論調に接して、当方はいささかウンザリしていた。しかしこういう文章を読むと清々しい気持ちになり、勇気が湧いて来る。
大島孝一先生の著書紹介 「 戦争のなかの青年 」 岩波ジュニア新書 刊 戦争はいつの時代にも、青年を戦場へ送り、多くの若い生命を奪ってきた。二度と故国の土を踏むことのなかった青年が家族・友人にあてた手紙や手記を収める『きけわだつみのこえ』『戦没農民兵士の手紙』などから戦争の無残さ、軍隊の理不尽さを伝え、再び青年が戦争に駆りだされないために、いま何をなすべきかを考える。
1916−2012 昭和後期-平成時代の平和運動家。 大正5年12月7日生まれ。福岡管区気象台に勤務中に徴用され,陸軍の気象班員となる。戦後,岩手大助教授をへて,昭和41-55年東京の女子学院院長。「戦没農民兵士の手紙」編集に参加したほか,日本戦没学生記念会(わだつみ会)常任理事,キリスト者政治連盟副委員長などをつとめた。熊本県出身。東北帝大卒。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E5%AD%9D%E4%B8%80
大島孝一先生の訃報 <キリスト教新聞より> おおしま・こういち=元女子学院院長。2012年8月27日逝去、95歳。葬儀は8月30日、日基教団西千葉教会で行われた。喪主は妻の静子さん。 1916年、熊本県熊本市出身。40年東北大学理学部物理学科卒業。福岡管区気象台勤務。その後、東北大学理学部地球物理学教室、岩手大学学芸学部などを経て、66年女子学院院長就任。日本キリスト教団常議員、同靖国神社問題特別委員長を歴任
在りし日の大島孝一先生
2007年10月7日、 池袋の台湾料理屋「新珍味」に集まった「台湾の政治犯を救う会」のメンバー、台湾から?の五人の青年と二人の先生。 「台湾は忘れない」の名の下に集まり、台湾の民主化のためにご尽力いただいた日本の友?への、溢れんばかりの感謝の気持ちでいっぱいです。 ここに、大島孝一氏への感謝の意を込めまして、こちらの映像を奉げます。
[ 貞末麻哉子 プロデュース作品一覧のページ ] E-mail:maya@motherbird.net P
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