映画「おてんとうさまがほしい」作品紹介 





 作品解説 ■
■ アウトライン ■



<作品解説 
('95年9月完成当時)

 77歳になる現在('95年8月)もフリーの映画照明技師である 渡辺 生さん(わたなべしょう:略歴は別記)は、半世紀以上を映画界で生きてきた。日立市に生まれ育った9歳年下の妻・トミ子さんとの間に子供はいない。
 大恋愛の末に結婚したふたりだったが、実家の両親の看病のため日立に残ったトミ子さんと、多忙な仕事の都合で東京に仕事場を借り、そこを生活の中心とする渡辺さんとは30数年にわたる長い二重生活が続いた。

 1988年頃、トミ子さんに軽い痴呆の病状が現れ始め、1990年2月、トミ子さんの骨折による入院をきっかけに、いよいよ渡辺さんは東京の仕事場を引き払い、生活の基盤を日立に移した。
 そして、1991年8月、トミ子さんはアルツハイマー病と診断される。
 1992年12月に入院を余儀なくされるまで、この自宅での介護生活の様子・トミ子さんの病状変化などを、渡辺さんはプライベートビデオで克明に撮影していた。医師に、より詳しく正確に症状を伝えることが目的だった。
 トミ子さんが入院して10日後、あまりにかわり果てたトミ子さんの姿に愕然とした渡辺さんは、ショックのあまりビデオカメラをトミ子さんに向けることができなくなってしまうが、仕事のない日は必ず病院にトミ子さんを見舞う生活が半年も経つと、渡辺さんの関心と視点は、老人医療・看護の現場が抱える問題や患者を支える家族の問題、地域の福祉に関する問題などに広がっていった。
 そして、1993年7月、病院関係者・患者の家族にも正式に撮影許可を得て、中古キャメラを購入すると、渡辺さんは慣れない16ミリのムービーキャメラによるたったひとりで撮影を開始。一般公開することを目的に本格的に映画制作に取り組み始めた。
 100フィート(約3分弱)の撮影済みフィルムが60本を越えた頃、介護に疲れた身体にムチ打って夜毎自宅でコツコツとフィルムの編集を重ねてきた渡辺さんから、仕上げのお手伝いを引き受けた制作委員会の手に、約60分に編集されたフィルムが委ねられた。
 1994年に始まった仕上げ作業は、「阿賀に生きる」の監督・佐藤真氏によって、再構成・再編集され、最終的に作品は、渡辺さん夫妻の物語を軸に進行することになった。
 ナレーションも渡辺さん自身に語ってもらい、1994年9月、撮影開始より2年を経て映画「おてんとうさまがほしい」は完成した。
<追記>

 1991年12月、アルツハイマー病と診断された私の妻・トミ子の入院生活が始まりました。茨城県日立梅ケ丘病院・老人性痴呆疾患センター。看病に通う毎日、治療・看護に携わる病院職員の方々がまごころをこめて患者さんたちをお世話する姿に触れることは、私にとって何にもかえがたい感動の連続でした。
 そうした皆さんのお姿と、患者さんを支えるご家族のお姿をフィルムに記録したいと、1992年7月、私は16mmフィルムで撮影を始めました。
 病気になった自分の妻を写すのは苦しいことではありますが、こうした太陽の温かさにもまさる施設がもっとできること願い、そして、老いというものと、共に生きることの問題を、何とかもっと多くの方々に考えて頂ければと願っております。

渡辺 生    

 上記枠内の文章は、渡辺さんが完成後に当初の制作意図に記した追記である。
 あきらかであることは、渡辺さんが記録しようとしたものは、医療・介護の現場で患者さんを支える周囲の人々の懸命な姿だった、ということだ。しかも、映画人として、常に裏方で現場を支えてきた渡辺さんにとって、自分自身が作品の前面にでる構成など、はなから念頭になかった ことは言うまでもない。
 しかし、我々は、渡辺さんとトミ子さんが築き上げてきた人間関係の深さに心打たれ、フィルムに刻まれた渡辺さんの“思い”の力に、強烈に惹かれた。そして、渡辺さん自身で語られる“生”へのメッセージを伝えたいと思った。
 このように、敢えて一部、渡辺さんの思いを犠牲にすることまでお許しいただいたこの映画は、ルーティンに捕らわれない渡辺さんの懐の広さに許されてはじめて可能になった仕事であることを明記しておきたい。
 老いることと病むことと、人と人が関わり合って生きることの問題は、もはや渡辺さんから見れば孫同然の世代である我々にとっても、遠く先の問題ではない。この作品の上映活動によって、世代を越えた関係が全国各地でつくられることで広がることを願ってやまない。
プロデューサー 貞末麻哉子
 


アウトライン


 病院の長い廊下で坂本トミ子さんへキャメラを向ける夫の渡辺 生さん。
 トミ子さんが車のウィンカーを消し忘れたり、同じものばかり買い物してくるようになった頃、
生さんはそんな妻の様子をホームビデオに収め始めた。
それは後に、16ミリのムービーキャメラに持ち替えられてゆく。



「私もほんとはね、自分の家内がああした姿になったのを、撮りたくないのは当然ですよ」
「でも、何か、キザな言葉で世の中のためとか、何か、
下手ながらでも撮りたいなあという気がしましてね....」



 妻の痴呆という突然の事故に遭遇したような出来事に、生さんの心は揺れ続ける。
 キャメラは寄せては返す波や沈みゆく太陽に向かい、
時には新婚当時の想い出や通訳で活躍していた当時のトミ子さんの写真をめくってゆく。
 1991年8月、トミ子さんはアルツハイマー病と診断され、12月13日、
夫婦は仏壇に手を合わせ、日立梅ケ丘病院にでかける。
入院したその日、病棟ではクリスマス会が行われていた。

 入院十日後、トミ子さんは急激な生活の変化によって、やつれ、
すっかり変わり果てた姿で生さんの前にいた。

 夏祭り、雨中のバスハイク、芝生でのボール遊び、そんな病院の生活を通じて
生さんの思いは、看護婦さん、食事作りのおばさん、患者さん同士のドラマに向け始められる。

「惚けたら子供みたいになるって、それは嘘ですね。
やっぱり人生の長い色んな生活してこられた方がこういう病気になっても、
私は決して子供とは思いませんよ。
やっぱりひとりの社会人としてみなくちゃあいけないと思いますよね」


 入院一年後の大晦日の朝、トミ子さんは一年ぶりに帰宅する。
自ら作った紙人形の出迎えにもかかわらず、
何故か怯え始めたトミ子さんは、すぐさま病院に舞い戻る。
再び一緒に暮らすことを夢見ていた生さんは、困惑を抱え妻を見つめ続ける。
トミ子さんは「オヒサマガアルヨ...」と、つぶやく‥‥‥。
 病院や在宅看護のスタッフ、患者さんととの介護を見守る家族、
それぞれの姿にキャメラが寄り添ってゆく。
介護される側の家族の気持ちに身体を刻み込んできた生さんは、
痴呆の身内を抱える家族の会(そよかぜの会)発足に奔走し始める。

「なおさら夫婦というものは、どっちかが倒れたときはお互いに助け合ってゆくのが、
夫婦なんだと思いますよ。
若いうちは手を握ったりキスをするのが愛情かもわからないけど、
年をとるにしたがって、どっっちかがもう先どうなるかわからないからって、
やっぱりその時こそホントの夫婦じゃないの.......」


 入院して二年後の初夏、トミ子さんは高熱を出して寝込んでしまう。
それがきっかけで歩けなくなり、車椅子の生活となる。
病院で過ごす日々、生さんは車椅子姿のトミ子さんから想い出を紡ぎだす。
生さんとトミ子さんの二人三脚の生活。

言葉を越えた絆を深めてゆく。
 そして、トミ子さんの確かな存在とそのぬくもりを握りしめて、生さんはひとつの願いに達する。
「誰もが生き生きと暮らせる温かさ」
という.........。



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  坂本 生 (渡辺 生) さんの奥様・坂本トミ子さん(享年75歳)は、
    2002年
428未明、肺炎のため他界されました。

.

  また、渡辺 生 (坂本 生) さんは、トミ子さんを見送られて13年後、
2015年
818、日立市にて他界されました。

生さんとトミ子さんは、大洗町営公園墓地に眠っておられます。



心よりお二人のご冥福をお祈りいたします。

おふたりの墓所の詳細(大洗町営公園墓地)はこちら



以下が関連三作品です。各作品の詳細にリンクしています。ぜひゆっくりご覧ください。



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