既に腰までドップリと漬かっている高齢化社会にどの様に対応していくのか。高齢者の人口が増えていくことだけはたしかなこの時代に問われるべき課題は無数にある。その中でも痴呆性老人の問題は、治療の困難さの点でも、家族や社会の受け入れの点でも大変複雑で難しい問題を孕んでいる。しかし、この映画はそういった老人問題そのものに答えを出そうというものではない。むしろ、ある老夫婦に突然降って湧いた様に訪れた痴呆症という病にどう揺れてきたかという、個人的な思いが綴られているに過ぎない。
痴呆性老人の独自の世界を鋭く切りとった作品として、羽田澄子監督の「痴呆性老人の世界」('86 岩波映画製作所)がある。そして、その続編ともいう「安心して老いるために」('90
自由工房)は痴呆性老人をめぐる様々な治療やケアの体制を総合的に描いている。私たちも、この映画の編集にあたって、この二本の映画を参考にし、大いに教えられ助けられてきた。特に、北欧の老人ケアと日本とを比較しながら、ありうべき痴呆性老人ケアの道を模索する「安心して老いるために」からは、現実に痴呆の患者をかかえた家族にとって、保健、医療、行政サービスの可能性をさぐる意味で切実な要求に応えてくれている作品である。もし、渡辺さんが妻の痴呆に遭遇したときにこの作品を観ることができたなら、在宅ケアや入院の対応ももう少し機敏にできたかもしれない。
しかし、現実には渡辺生さんは、それまで何の関わりもなかった老人医療や行政の門をたった一人でたたくしかなかった。そして、その中での様々な出会いが、渡辺さんに自分の妻の痴呆を撮るという映画撮影を決意させた。痴呆症の妻がお世話になっている病院や医療関係者への感謝の気持ちこそ、渡辺さんがこの映画を撮ろうと思った動機なのだ。だからといって、この町の老人医療体制が、他にぬきん出て優れているというわけではない。むしろ、様々な矛盾をかかえながら、ありうべき医療のあり方を模索している過程なのだ。いくらほかの町に優れた実践例があるとしても実際に家族の痴呆に遭遇した折りには、自分の町で対応を模索していくしかない。しかも、今老人医療に関する地域間隔差は、ますます大きくなっていく一方なのだ。
渡辺さんは、同じ悩みをともにする仲間に声をかけて家族の会も作った。この映画作りに全面的に協力してくれた梅 ケ丘病院も、良い所も悪い所も全部含めて映画にとってほしいという潔い覚悟でこの映画づくりにのぞんでくれた。模索する過程である思いは共通のものなのだ。この映画一本で解決への道の答えを出そうとすること自体、どだい無理な話だ。ただ一人の老人の視点から見えたある夫婦のケースをもとに、各地域や各家庭で、ありうべき老人医療を模索するキッカケになれば、この映画の役割はそれで充分であると思っている。