伝承
めぐる「伝承」
一番伝えたいものをカタチにすることは難しい。カタチにしたとたん、指の先からこぼれ落ちて行っていまいそうで、けれど、何とか伝えたいものだから、絵にしてみたり、歌にしてみたり、踊ってみたりするのだと思う。
一つの絵、一つの歌、一つの踊りでは表しきれなくて、だから、もう一つ、さらに一つ、伝えたいカタチに少しづつでも近づけるように、新しいカタチを探すのだ。点と点とを結んでいって、いつか面となり、立体となり、ぼんやりとでも人の心に届けられるよう、祈りを繋ぎながら生きている。
けれど、渡辺祥充という人は、このたった45分の作品の中で、思いの断片を一つのカタチに縫い合わせ、彼の心の「伝承」としてみごとに完成させてしまった人のように思われる。彼は、この作品を編集して息絶えたのだというが、この作品はまさに、渡辺が死と向き合いながら、彼の頭の中を走馬燈のようにかけめぐっていった心象風景、生のシーンそのもののように思われる。
そして、この映画の底を流れているのは、深い深い祈りである。
みたされぬ生、叶わぬ願い、届かぬ思い、そういうものを全て飲み込みながら、しかし、映画には、限りなく透明な美しい光が射し込んでいる。どこかに、生への希求みたいなものが感じられるのだ。
「伝承」には、コトバがない。画面は次々に違う風景を描き出し、アタマで追おうとすると、とてもついていけない。だから、わたしは空になった。空っぽになって、体中の毛細血管を緩ませて、画面の前にたたずんだ。すると、どうだろう。切ないほど美しい映像が、ちらちらちらちらと移り変わりながら、見ているわたしの心の中に、折り重なり、積み重なってきたのである。
―なにかがじわじわと体の中にしみこんでくる―
この「なにか」が何であるのか。わたしにはまだよくわからない。けれどそれは、わたしの中に、しっかり棲みついてしまったようなのだ。肩肘張って頑張っていて、ほんの一瞬気が緩んだり、切なくなったりした時に、ふっとどこかの関節の中から、一つのシーンが蘇ってくることがある。「伝承」が、わたしの胎内でこっそりわたしを見つめながら、輪廻転生を繰り返しているかのよ
うな、そんな感覚なのである。
「伝承」は、ゆったりと、しかし確実に、わたしの中をめぐっている。そして、わたしの変化を誰よりも敏感に映し出す。
―不思議な、映画である―
八重山文化愛好家 沖本幸子
伝承