映画 伝 承 -Transmission - 寄稿文

 ■寄稿文紹介


ほびっと村 発行の月刊「かわらばん」
映画「伝承」の上映案内のコーナーにお寄せいただいた原稿を
転載させていただきました。

無題‥‥‥ 吉村佳映(るりいろ工房 代表)
無題‥‥‥ 味戸ケイコ(画家 )
めぐる「伝承‥‥‥ 沖本幸子(八重山文化愛好家)
『伝承』に出会う‥‥‥ 平野多恵 (仏弟子 )
『伝承』についての独り言‥‥‥ 洪 福貴(映画・TVの演出スタッフ )
『伝承』と伝統芸能‥‥‥ 中山隆匡 (映画録音技師 )
無題‥‥‥ 和田至亮(映像エディター)
無題‥‥‥ 麗 香 (28歳・二児の母)
無題‥‥‥ 吉永和彦 (僧侶)
無題‥‥‥ 梅沢元彦(マルチメディア会社代表)

(敬称略)



伝承

 遠い日、海辺で拾った小さなガラス・・・。
 それは、なつかしさ、いとおしさ、あたたかさを感じさせると同時に、壮大なこの宇宙をも感じさせてくれました。
 私の中で「伝承 Transmission」は、いつの日か海辺で拾ったその小さなガラスと共鳴しながら、「我々は人間として、それぞれの役目をもって生まれ、日々生かされている事への認識と、感謝の祈りを忘れてはいけないよ」と言葉少なげに語りかけてきます。
 そして、エンディングに流れる山中茂の音楽は、大きく暖かい手で私のちっぽけな心を、いつまでもやさしく抱きしめ、癒してくれるのです。

るりいろ工房 代表 吉村佳映   

伝承
伝承

 繊細でシンプルなシーンが淡々と映し出される。それは美しすぎて悲しくさえなってしまう。この作品を生みだしたひとの澄みわたった眼差しゆえに。
 蓮の花の浮かぶ水のひとすじ。風に舞う砂丘の砂のひとつぶ。そんな小さなものの ひとつひとつが どうしようもなく私の全てと繋がる。そして 果てしない宇宙の広大無辺さへと連なっていく。すると 安らかな懐かしい思いが 心の岸辺をいつまでも洗った。
 祈りをこめた経文で埋め尽くされたハタが 風に飛ばされ天空に昇ってゆく。みな等しく異なるひとり‥‥‥という深い意味が胸を尖いた。
 多めに見積もって、9000日有るのか、無いのか。この地上に停まっていられる時間。そんな私が何処から来て何処へ行くのか・タイムリミットまでを どのように生きるのか。静かに深く問いかけてくる。
 苦しみを救う読経の声。悲しげなロバの声。
 それらを織り込んだ音楽もまた まっすぐに問いかけてくる。切ないほど 胸がしめつけられる。そのひたむきさゆえに。その無垢さゆえに。

 不自由なコトバの無い映画でよかった。自由にメッセージを受けとることが可能だったから。
 「伝承 Transmission」を見終わり、感じ終わった私は、余分なもの全てを剥ぎ落とした繭のなかにいた。透明な魂だけになって光りながら。

画家 味戸ケイコ  

伝承

伝承

 めぐる「伝承」
 
 
一番伝えたいものをカタチにすることは難しい。カタチにしたとたん、指の先からこぼれ落ちて行っていまいそうで、けれど、何とか伝えたいものだから、絵にしてみたり、歌にしてみたり、踊ってみたりするのだと思う。
 一つの絵、一つの歌、一つの踊りでは表しきれなくて、だから、もう一つ、さらに一つ、伝えたいカタチに少しづつでも近づけるように、新しいカタチを探すのだ。点と点とを結んでいって、いつか面となり、立体となり、ぼんやりとでも人の心に届けられるよう、祈りを繋ぎながら生きている。
 けれど、渡辺祥充という人は、このたった45分の作品の中で、思いの断片を一つのカタチに縫い合わせ、彼の心の「伝承」としてみごとに完成させてしまった人のように思われる。彼は、この作品を編集して息絶えたのだというが、この作品はまさに、渡辺が死と向き合いながら、彼の頭の中を走馬燈のようにかけめぐっていった心象風景、生のシーンそのもののように思われる。
 そして、この映画の底を流れているのは、深い深い祈りである。
 みたされぬ生、叶わぬ願い、届かぬ思い、そういうものを全て飲み込みながら、しかし、映画には、限りなく透明な美しい光が射し込んでいる。どこかに、生への希求みたいなものが感じられるのだ。
「伝承」には、コトバがない。画面は次々に違う風景を描き出し、アタマで追おうとすると、とてもついていけない。だから、わたしは空になった。空っぽになって、体中の毛細血管を緩ませて、画面の前にたたずんだ。すると、どうだろう。切ないほど美しい映像が、ちらちらちらちらと移り変わりながら、見ているわたしの心の中に、折り重なり、積み重なってきたのである。

   ―なにかがじわじわと体の中にしみこんでくる―

 この「なにか」が何であるのか。わたしにはまだよくわからない。けれどそれは、わたしの中に、しっかり棲みついてしまったようなのだ。肩肘張って頑張っていて、ほんの一瞬気が緩んだり、切なくなったりした時に、ふっとどこかの関節の中から、一つのシーンが蘇ってくることがある。「伝承」が、わたしの胎内でこっそりわたしを見つめながら、輪廻転生を繰り返しているかのよ
うな、そんな感覚なのである。
 「伝承」は、ゆったりと、しかし確実に、わたしの中をめぐっている。そして、わたしの変化を誰よりも敏感に映し出す。

 ―不思議な、映画である―

八重山文化愛好家 沖本幸子  

伝承  

伝承

 伝承に出会う

『伝承』を見た。なんの前触れもなく。
 冬の日曜日昼下がり、電話のベルが鳴る。
 今日西荻でラダックの映画をやるんですよ、見に行きませんか。聞き覚えのある声。
 ラダックか。一年と三ヶ月ばかり前に訪れた、インド最北、チベット仏教の地。
 おじさんおばさん子供たち、優しい微笑み。なにもかもが穏やかだった。澄みきったものが心の中を流れていったような気がして、思わず答える。あ、行きます。

 見て驚いた、こんな映画が在るということ。そして悔やんだ、この映画を今まで知らなかったこと。それから嬉しかった、ここでこうして『伝承』に出会えたということ。
 
 『伝承』という映画について説明するという不粋は今更しないでおこう。これはただただ、一人でも多くの人に見てもらいたい映画である。正直言うと、『伝承』という作品を見て私が受け取ったものについて、ことばにするのは非常に難しい。一つ言えるのは、この作品が心の底の大切な部分を掘り返してくれたということだろうか。昨日も夕方、電車の中、『伝承』で見たシーンが知らぬまに浮かんできた。老僧、少年僧、空の凧、風の声、耳に当てた貝殻、水の影、炎の群れ、曼陀羅の色、カラスの眼。ふとしたとき、心の表面に浮かび上がってきては沈んでいく映像の数々。『伝承』は記憶を内包している、見た人の記憶を呼び覚ます。そんな作品である。
 『伝承』に出会うということ、それは「自分」に出会うということ。
 あ、最後にもう一つだけ。『伝承』で嬉しかったのは、作品そのもののすばらしさに加えて、貞末麻哉子さんという素敵な女性に、この作品が守られているということでした。ほびっと村で『伝承』を見る皆さん、『伝承』に織り込まれた想いだけでなく、貞末さんの『伝承』への想いにも触れられるなんて、あなたはとっても幸せ者です。

仏弟子 平野多恵   

伝承 

伝承

 『伝承』についての独り言

 『伝承』という映画は、正反対のことを同時に心の中に生じさせる不思議な力をもっている。見る度に変化しているような映画というのはいったい何だろうか。生きもののようにゆらいでいる‥‥そんなふうに思えるのはなぜだろう? 映画の中に吹いている風は今もやっぱり吹いていて、心をゆさぶるのだろうか。
 渡辺さんがかつて見た、その中にいた風景は、今ここに流れている時間につながっている宇宙が始まった時から流れ続けている時間であると同時に、永遠という時を超えているものでもあったんじゃないだろうか。
 迷宮はわかってしまった者には地図になる。
 目の前にある「伝承」というマンダラもいくつか度を続ければ、地図になるかもしれないと秘かに思ってみる。
 「伝承」は日常を超えたところにある。心の奥深くに隠されている1つの望み、あるあこがれが人を動かすことがある。ある日、人は何か空っぽな感じがして、それを埋めようとしてさまざまなことをする。しかし、なかなかそれは埋まらない。
 この映画を一番最初につくろうとした時から、歳月が心の奥深くに隠された秘密にむかって監督を変えていき、欲のようなものがどんどんそがれれ、彼自身の願いやあこがれが姿を現したような気がする。
 この「伝承」という映画は地を横に進むというものでなく、天に向かう力を持つと思う。現世的というよりも来世的。一つでありながら二つ以上のもの。
 池の中に魚がいて、水面に地上の木が写っているカットを見るとき、水という一つの存在が、二つを融合させているように感じる
 彼が見た啓示には言葉はおそらくきゅうくつすぎたのだと思う。
 言葉というものは時としてそれ自体の主張が激しすぎて鼻につくことがある。そういう意味で言えば「伝承」という映画は一つの豊かな泉であり、そこからは無限にあらゆる美を見いだすことができるのだ。
 某書にある著者の言葉「誰にも読めるが誰にも読めない本」のように、この映画は
「誰でも見ることができるが誰にも見えない映画」と言えるかもしれない。なぜならばこの映画が天をめざすものであり、翼を忘れてしまった人間には見えないからである。
 「伝承」を見た某中年男性が「紀行映画じゃないか」と文句を言ったという話しを聞いたとき、日常に埋もれてしまって翼を忘れてしまったその男性をとても哀しく思った。誰でも幼い頃持っていた翼を、大人になって食べることの大変さのなかで忘れていってしまうことはよくあることだけれども、人間は食べることだけじゃ満足できない動物だ。いつか、何か心の中の穴っぽこに気づいて、埋めようとするだろう。
 見える世界と見えない世界の間に聖域はあると渡辺さんは言ったという。忙しい日常の分や秒に刻まれた時間から、自分を解放して永遠の時の流れにひたることの出来る「伝承」という映画に出会えたのは、すばらしい幸運だと思う。

映画・TVの演出スタッフ 洪 福貴   

伝承



伝承

 『伝承』と伝統芸能

 私が「伝承」をはじめてみたのは1996年だった。
実はこの時、山中茂氏の音楽の強力なインパクトに押され、映画としての「伝承」の印象は薄かった。
 ところが昨年、能・狂言などといった伝統芸能にたずさわってきた人をフィルムに記録するという仕事に偶然出会い、ふと、「伝承」のことを思いだした。
 文化を伝承すようとする人々というものは、その歴史のなかにあって大いなる闘いを強いられてきたように思う。
 亡くなった「伝承」の監督のことを私は知らない。しかし映画「伝承」を生みだした心には、能や狂言を伝承してきた歴史のなかの人々に蕩々と受け継がれてきたものと同じものが流れているような気がする。
 その意味でも「伝承」は、しっかりと次代に引き継いでいかなければならない作品であると私は思う。

映画録音技師 中山隆匡  

伝承

 『やろうと思えば出来ないことはない。しかし、ここまでやったら俺も死ぬかもしれない』。
 あるドキュメンタリー監督が映画「伝承」を観た後、ふと洩らした言葉である。

 監督・渡辺祥充の全身全霊を尽くして遺されたこの映画は、自主映画=低予算+稚拙といった一般的な見解を凌駕するにとどまらず、プロの制作者ですら感嘆・絶句させるほどの出来映えまでに昇華している。
 45分という短い上映時間内で、映画は5つのシーンに大別され、地・水・火・風・空と位置づけられた各シーンには短くも印象深いイメージカットが、次から次へと駆け抜ける。年老いた老僧の目、消え去る母親の残像、仏塔、赤い壁を這う手のアップ、少年僧が舞い上げる凧、山羊たちの群、貝殻を耳に当てる少女、壮大な火の儀式‥‥‥この作品では関連性のないカットどうしが次々と折り重なり、次第に大きなうねりとなっていって、初めてシーンの意味をなす構成をなっている。ちなみにセリフは一言も出てこない。 それでいて不躾な作風にもならず、むしろ洗練されてさえいるのは、それが一年もかけて編集され、計算し尽くされた集合体であり一秒の無駄もないこと、奇麗でいて時に怖い音楽、宗教臭さを押しつけず情感で魅せてしまうパワーがあるからだろう。
 この作品は何度観てもいまだに新しいカットの発見や別の解釈が出来るほどの余地を残しており、その懐の深さに圧倒される。物欲などの消えない日々を送りつつ、精神世界、自分とは何か?と自身に問い、ひとときの幸せにしがみついている私達‥‥‥
 一度、渡辺祥充の残した遺産を観に来てほしい。

映像エディター 和田至亮   

伝承

伝承

 映画「伝承」を見るたび私は、「どこまでも飛んで行けるのだよ」という気持ちを持つ。満月と共に音が昇ってゆく時・星・月・風・火・水・花・木・空気・すべて言葉では言い表せない程の美しさ、そして<監督>渡辺さんの優しさ、強さ、寂しさ、鋭さ、誇りを感じる。
 10年をかけてアジアを見、そしてそのアジアに存在する自分に美しい誇りを持ち、フィルムで訴えようとした渡辺さんの心に何かを想い、何かがとどまり、あんなにも美しい映像を残した。強さの中の優しい気持ち、さびしさの中の嬉しい表情、それは、目を閉じて音楽だけ聴いているときと同じで、大きさや力を変えて巡りくるものだ。
 自然の音と音楽の強調、映像と自分自身の同調、掛け合い、その瞬間鳥肌が立ち、吸い出され、満たされてゆく‥‥「伝承-Transmission」は、『渡辺祥充という人そのもの』であり、自然、音、心の調和、美、そのものである。
 ラストの cast 紹介の場面では、いつも涙が出てくる。
 この涙にはいろんな想いがある。渡辺さんは今「死」という名のもとに行ってしまったけれど、人という存在までをも越えて私の心に生きているからこそ出る涙なのだ。
 風のように大地をめぐり、海を山を越え、湖をわたり、渡辺さんはいつも「伝承」の中に生きて私たちを見守っている。
 すてきなすてきな作品を残してくれたことに感謝している。

麗 香(28歳・二児の母)    

伝承

 何かを探して、何かが持ってて、何かが動き出す。歩いているのは私自身。
 求めても見つからない、探さなければ見つけられない。求められてもたどりつけない、呼ばれても聞こえない。探す人と求める人どこかに接点がありたどり着く。
 緑の不思議さ、伝え会い感じ会う。一人が二人に、家族になり集団になり国になる。いろいろな価値観があり、情報があり選び淘汰され成長する。何もしなくても過ぎていく、何かしてても終わらない。いろいろなものを背負い、背負わされ生きていく。言葉で慰められ、映画を見て感動し、いろいろな言葉を探していく。
 いつもいつも考えているわけでなく、ふと立ち止まった時に不安になり、これでいいのか確認したくなる。こんなこと考えているから悩み苦しむ。ほんのひととき抑圧された心を解き放ち、無茶苦茶したくなるが世間は許さないし、自分も許さない。
 楽しむことが少ない人生。人に出会い映画に出会い宗教にであう。先の見えている人生と嘆き人にやつあたりする。
 苦しみ悩み楽しむ、何かが足りないから欲しくなる。苦しいから逃げ出したくなる。楽しいから有頂天になり落ち込む。いつも心の外に何かを求め続けているから盗まれてしまう。心の内になにか見つけられたら人には盗まれない。
 そのことに気がついているのに目は外を向く。難しい言葉はいらない。感じ会える心があればよい。見る人聴く人感じ会える映画のひとつが「伝承」である。

僧侶 吉永和彦  

伝承 


  映像が、そして音楽が、不思議な躍動感とともに心の中にすっと入ってくる。
 宇宙と自分とが一体であること、神への帰依、自然への畏敬。日々の生活から逸脱した世 界がここにはある。伝承されてしかるべき精神世界が、象徴的な映像によって次々と語られていく。そして45分間はあっという間に過ぎ、製作スタッフのクレジットを眺 めながら最後は茫漠とした気持ちになる。私はもう何度となくこの映画を観た。(本当はあるのかもしれないが)ストーリー 性がなく、また言葉もない分、毎回違うイマジネーションを楽しむことができる作品 だからかもしれない。最初の何回かはこの映画の中から何かを得ようとしたり、何かを解釈しようとしながら観ていた。けれども最近はそんなに気負うことなく、ただただ心が感じるままに観ることがこの映画の本来の見方なのではないかと思うようになった。
 人は時に自分を表現する欲求にかられる。それは人によっては文章であったり、音楽であったり、絵であったりする。しかし一生をかけても納得のいく作品を創りだせる人はそう多くはない。自分の生きてきた証を後世に残せるということはとても幸せなことだ。監督の渡辺氏は映像という手段で自分をこの世に表現し、フィルムという形で残してしまった。それもとびっきり美しい映像と心象風景によって。この作品によって彼自身も、作品とともに永遠に伝承され続けていくのだろう。そしてこの世界に遍く、ひとりでも多くの人々に本作品が伝承されていくことを願ってやまない。

マルチメディア会社代表  梅沢元彦  

伝承 

こちらにはレクチャーのパネラーによる寄稿文もあります