裕美さんの顔を思い浮かべると必ず、お父さんとお母さんの顔が浮かびます。
それ程、安達一家三人は、三人で絵になっているのです。
いつも穏やかな笑顔を絶やさない安達さん御夫婦。御主人の驚きは、思ってもみなかった学校へ通い出して、裕美さんがそれまで恒例だった年末の入院をしなくなったこと。だから何か学校行事でお父さんの参加をお願いすると、すぐとんで来てくださいます。
いつまでもこの三人の絵が、壊れませんように。

裕美だけに生きる
長女裕美。昭和四十二年十月二十一日生まれ。今年お誕生日を迎えると満十四歳。そして、次女○○、今年○歳・・・・・と書くことができたらどんなにいいだろう。その子に、一度でもいいから、裕美のかわりに「お母さん。」と呼ばれてみたい・・・・。
今はもうそれほど悲痛でもなく、口に出して言うこともありませんが、主人もきっと同じ気持ちだと思います。
「裕美のために弟や妹をつくらない。」
それが裕美にとってよかったのか、それともこれから先、寂しい思いをさせることになってしまうのか、それはわかりませんが、あえてその道を選んだのです。でも、親子三人だけのこの生活も、障害児だからというのですぐに選んだのではありません。
裕美が生まれて三ヶ月すぎても首がすわらず、心配になって国立こども病院に検査のため入院したのは、満一歳になろうとする時でした。検査が始まると、裕美は高熱を出し、尿も出なくなり、そんなこととも知らず預けたまま帰ってくると、電話で危篤の知らせです。あわてて駆けつけましたが、そばに寄って手を握ってやることもできず、廊下からガラス越しに見守るほかありません。
そんなつらい思いをいろいろして、やっと退院という時に、
「今度、大きな病気をしたら危ないですよ。」との医師の言葉・・・・。それだけでもドキッとするのに、まるで神経を逆撫でするように、「もしものことがあったら、こちらで解剖させてくださいますね。」と、娘の病気が命が単なる研究材料でしかないような口ぶり・・・・。
「いいえ!絶対死なせてなるものか!」
二度と渡すまいと、ひしと抱きしめたことでした。医術の向上をめざす立場からは当然の申し出でしょうが、私には人の命をいとおしむ気持ちが感じ取れなくて、あまりにもむごく響いたのでした。
裕美は、毎年何回かの入退院をくり返し、その間に風邪をよくひいて通院するという年月が続きました。そんな病弱の裕美を見ながら不安な毎日を過ごしているうちに、この子ひとりの命をみつめながら生きていこうと次第に心が決まったのです。もっとも二人目は必ず元気な子供が生まれるという自信がなかったことも確かですけれども・・・・。
そういえば、七五三のお祝いを思い出します。女の子は三歳のお祝いをすることは知っていましたが、私達夫婦は、本人が喜んでくれるわけでもないと、考えてもみませんでした。それが、十一月十五日の一週間ばかり前、突然おばあちゃんがお祝いを持ってやってきてくれました。
「ほら、着物だと、裕美ちゃんは帯を締めるのが大変だからと思って・・・・。」
赤く可愛らしい被布でした。それに小さなハンドバッグとぞうりです。
もちろん、人形と遊ぶこともできない裕美に分かるはずもありません。でも、私は、ハッとしました。たとえ重度の障害児だとしても、裕美も同じ女の子なのだと・・・・・。
おばあちゃんの贈り物は、ともすれば、わが子を特別なものとして見ようとしている私に、親子ともども人間らしく生きて行くことを教えてくれたような気がするのです。
学齢に達する頃から、裕美はすっかり元気になり、時折、風邪をひくほかは、入院することもなくなりました。そんなある夏、思いきって、旅行に出かけることにしました。
実家の両親と弟達、それに私達三人。全部で車三台、七人です。
行き先は伊豆の伊東温泉でした。これまで外泊といえば実家くらいで、それも夜は泣き出してなかなか眠ってくれず困ったものでしたが、たとえわずかでもよい、どこかに楽しい思い出になって残ってくれたらいい、そんな気持ちでした。
ところが初めての旅行とあって大騒ぎ・・・・。車の中には、水枕、体温計、解熱剤、風邪薬。それにもし冷房が涼しすぎたらいけないと、長袖やら長ズボンやら、裕美のものばかりで、まるで一週間も大旅行するような荷物になってしまいました。
でも、幸い裕美は体調をこわすことなく、終始ご機嫌で、用意したものを全然使うことなく、無事、帰宅することができました。これに味をしめ、今では親子三人で、年に三、四回も一、二泊の旅行に出かけていますが、もし裕美がものをいうことができたら、
「みんな、私のことをだしにして・・・・・・。」とニヤニヤするのかもしれません。たしかに、私達夫婦の慰安といった面もありますが、それにもまして、親子三人の生活の歴史の上にいい思い出を刻んでいきたいと、旅に出るたび思うのです。
母子で学ぶ分教室
その裕美思ってもみなかった小学校(養護学校)への入学が決まった時のうれしさ・・・・・。自分で体も動かすこともできないのですっかり諦めておりましただけに、とびあがる思いで、本当に目の前がパッと明るくなった気持ちがいたしました。
そして、母子で通う中村分教室・・・・・。子ども達は同時に数人の先生方につきっきりでお世話をしていただくという恵まれた環境です。今、裕美は中学二年生。これまでに一体何十人の先生方にお世話になったことでしょう。
また、子ども達が先生方と過ごしている間、私達のために設けていただいた母親学級で勉強できるのも大きな幸せです。その部屋はただ勉強だけでなく、手芸を楽しんだり、同じ悩みや心配ごとを相談しあったりする場所なのです。新しく仲間に入られた方も、たちまちとけこむことができる場所なのです。私も何度励まされたことでしょう。そして、これ程みんなの心が一つになってまとまりを持っている母親グループは、私達のまわりを見回してもほかにないと思うのです。そんな暖かいチームワーク作りも、グループの皆さんに学んだ大切なものの一つです。
チームワーク作りといえば、毎年夏の学校ぐるみ家族ぐるみの一泊旅行のことをあげないわけにはいきません。この時は、ふだん顔を合わせることのない父親同志が膝をまじえて話合うことができる、貴重な機会なのです。ある意味では、夫婦を私達グループのペースにまきこんでしまう場ともいえましょう。ともあれ、笑いと涙のうちに、みんなで手をとりあって、力強く生きていこうと改めて誓いあうのです。
さて、そのチームワークの小さな単位のわが家ですが、裕美も機嫌のよい時話しかけると返事ができるようになり、これまで以上に息がぴったり合ったところです。
そして、これからも家族三人しっかり肩をくみあって、命ある限り頑張って生きたいと思っています。
●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)