ピカピカの一年生。その入学直前、麻疹後脳炎に冒された恵子さん・・・・・。
お父さん、お母さんの混乱とその苦痛はどんなだったかと思います。
「治るのだから、治ってから学校へ行かせたらいい」という鈴木さんを、児童相談所のケースワーカーが訪問学級に案内してみえたのが三年前でした。今でも、奇跡を信じるとか治るとかいう言葉が、ふっとその口をついて出ます。
その時のショックで鈴木さんの自身の股関節脱臼が悪化し、今も両手に“杖”がないと歩けない状態です。こちらの治療も、今の鈴木さんのもうひとつの課題です。

恵子ちゃんの挫折
春三月、入学を目前に、その準備もととのい、嬉しそうに赤いランドセルを背負っていた恵子。
ハシカも終わりかけたある日、突然のケイレン。救急車を呼ぶ。花園橋の中央病院の医師は、激しいケイレン症状にびっくり。恵子のカルテがある横浜市大病院に連絡。市大病院に着くまでの一時間、次第に症状悪化、ケイレンとともに呼吸困難が続く。
市大病院では熱心に治療してくださった。恵子が緊急処置室に入って一時間後、廊下に出てこられた医師は、全身に汗。麻疹???脳炎の診断・・・・・。
「できる限りのことはやっていますが、最悪の状態です。ほんとうにお気の毒です」
瞳孔は開き、全身チアノーゼで土色に変色、意識はなく、ケイレンは続く。
その夜、ICUに入る。
次の三日間、昏睡状態。
さらに、肺炎を併発。呼吸困難をきたしているうえに、気管にからんだたんを吐きだす力もなく、心臓も時に停止。この状態が一週間・・・・・。
「このような重体に耐えられるのは、一万人に一人です。あらゆる手をつくしていますが、あとは恵子ちゃんの生命力にかかっています。」
「しかし、もし助かっても、ケイレンが続いたので、脳障害を起こしています。そのことは、承知しておいてください」
と、医師からの宣告。夢中で、命だけでもよいから助けてください、と懇願するばかりだった。
多くの医師や看護婦さんたちが、入れかわり立ちかわり、一心に治療や看護に当たって下さった。私も絶対にあきらめない。
やがて、鼻からチューブによる流動食が入るようになる。その二週間後、ベッドからおろすと、一歩一歩と歩き出す。
「いやァ、よかった」
と、あまりにも早い回復ぶりにびっくりする医師。
「こんな症例では、寝たきりになるお子さんがほとんどです。ふつうでも、三ヶ月はかかるんです。よかった。恵子ちゃん、おめでとう!」
恵子は次々に機能を回復した。初めて、食べ物をのみこんでくれた感激・・・・・。耳は異常なし。しかし、目に光を当てても反応なし。この視神経ばかりか、重要な中枢神経が冒されていて、ものの分別ができなくなっている。
が、多くの方々のおかげで、奇跡的に命は助かった。四十日ぶりに歩いて退院。健常児が一変、重症の障害児という重荷を背負っての第一歩が始まった。
カバンのいらない学校
その後の一年間は、もしかして恵子が元どうりに戻ってくれるのではないかと期待し、やがてそれは焦りに変った。折から、恵子の発病を機に、私の持病の股関節脱臼が悪化。(現在も、両手に杖なしでは歩行できないが、)そんなこともあって、ますます暗い気持ちに落ちこむばかりだった。同じ年ごろの子供たちの通学姿を見るにつけても、わが子の不運が悔やまれて、顔を泣き腫らす日が多かった。
二年目に入ると、福祉関係の方々とめぐりあうようになり、初めて聞くことばかりだったが、障害児教育の重要性を知りはじめた。が、体の不自由な私には、恵子を連れて学校へ通うことなど考えられなかった。
“もう一度奇跡が起こって、恵子は元どおりになる。治ってから学校へ入ればいいのだ”と・・・・。
中村分教室に入学することになったのは、発病から三年目の春であった。まだためらったが、母子ともにスクールバスで送迎してくれるのだという。児童相談所の方の強いすすめで、はじめて分教室を訪ねてみた。
「先生、カバンをもってくれるのですか。
本も一年生のがそろっていますが、どうせ教えてもらっても、分かりません
し・・・」
先生は黙って聞いておられたが
「お母さん、カバンはいりませんよ。ここは教科書なしです。そのかわり、着替えをもってきてください」
どういうことかわからなかった。が、説明を聞くうちにようやく理解することができた。この分教室で目標にしているうちのひとつ、「日常の生活習慣を身につけさせる」ことですら、恵子にはできなくなっていることが多かったからである。
それから三年、恵子に奇跡は起こらなかったが、ひとつひとつ大事なものをとり戻している。教育・・・・、なんというすばらしさだろう。
「恵子さんが、ひとりでいすに座れるようになりましたよ。ほら!・・・・」
「きょうは、トイレで、はじめて成功しましたよ。大成功!」
「恵子さんて、寒いと、いやな顔をするようになりましたね。これは素直に自己表現ができるようになったってことなんですよ。」
「きょうは、先生と校庭を三周走ったのよ。すごいでしょう!」
ひとつの変化、ひとつの進歩にも、みんなで喜んでくださる先生たち・・・・・。子どもたちひとりひとりの障害の程度や個性をよくのみこんだうえで、それぞれの可能性を根気よくひきだそうとする先生方の努力と熱意には頭がさがる。恵子の場合も、教室その他、母親がそばについて介助すべき時にも、先生方が絶えず気を配ってくださるので、とても有難い。
時おり思うことがある。他人の子供なのに、どうして先生方は献身的なのだろうかと・・・・。ほんとうに「聖職」という言葉は、この先生方のためにあるのだろう。
今ふり返っても、校庭を走る恵子に合わせて、どこまでもあとを追う先生の姿や、遠足に行った海辺の波うちぎわで、恵子とともに遊んでくださる先生の笑顔が、目にあざやかに浮かんでくる。
母親教室も私の心の支えである。
母親たちの控え室でもあるが、先生を囲んで学ぶ場であり、時には外部から講師を招いて話を聴く場でもある。
初めての講義で、障害児問題の重さを耳にして、私自身のものとして自覚し、それを受けとめるのに思い悩んだ日々・・・・。そして、“先輩”のお母さんたちの話し合いに耳を澄ます私だった。
今も、社会組織、福祉の問題と、次々に広がりをもちながら、母親として、障害をもつ子へのとりくみ方、子供の将来についての考え方のまとめなど、話し合いは果てしなく続いている。
母親の共通の悩みは、子供が日一日と成人に近づくこと。さしあたり、分教室を卒業したらどうなるのか・・・・。私たちで、簡単に解決できることではないので、暗く深刻である。
しかし、どのお母さんも、それぞれに問題を秘めていながら、常に明るい。話題も豊富で楽しい。そんなお母さん方に助けられて、歩行の不自由な私にも、居心地のよい教室である。そして、この教室で、将来に備える勇気と力を少しずつ蓄積させてもらっているような気が、私はするのである。
また、ケースワーカーの先生方のことも触れないではいられない。熱心なご指導やお力添えにもかかわらず、さまざまにご迷惑をかけたことであった。が、ともすれば崩れそうになったとき、どれほど勇気づけられ、立ち直ることができたことか・・・・・。
今も、いつ体調をこわして身動きできなくなるかもしれない私であるが、繰り返し、こういっていただいている。
「倒れる前には、必ず知らせてくださいね、いつでも手をかしますから。恵子ちゃんのこともご心配なく・・・・・」
この感動は、生涯胸に刻み込まれて、忘れることはないであろう。ほんとうに心強い。
こうした多くの暖かい心とのめぐりあい・・・・。
しかし、感謝しながらも、私は甘えることなく、力強く生きていかねばならない。
そして、恵子をよりよく成長させることが、少しでもご恩返しになればと、私は一歩一歩をふみしめるのである。
●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)