ヤッ子(恭子)さんがいてママがいて、そのまた後ろにパパがいる。そんな感じの駒田一家。身長180cmもあるデッカイパパと、歌の上手な素敵な声のママに抱かれて、ヤッ子さんはいつもニコニコ幸せそうです。
何よりもヤッコさんにいいことは、パパもママも出かけることが大好きだということ。ちょっと休みがあると、それっとママの郷里の福島へ出かけたり、箱根へ出かけたり、友達の家へ出かけたり。お陰でヤッ子さんは大の人好き。人見知りをちっともしません。

ヤッ子は不死鳥
ヤッ子ちゃん!
今年からいよいよ中学生ですね。
駒田家の一員になってから、もう十二年が過ぎたのね。早いものです。
ヤッ子ちゃん、調子はいかが?
そう、とても元気で、快調ですね。
一昨年の秋から去年の春にかけての、あの苦しい時期をよく乗り切って体調を戻してくれました。でも、どうしてあんなに呼吸が苦しくなったのでしょうね。
パパとママは、今度こそダメなんだろうか、このまま弱って秋か冬には死んでしまうのだろうか・・・・、と、本気で思いました。これまでの危機の中では一番最悪だったように思います。
そういえば、ヤッ子ちゃんは四度も死神に連れ去られそうになりましたね。
誕生の時・・・・・。二年生の春、がく関節の手術をした時・・・・・。そして去年の、肺にうまく空気が入らなくなった時・・・。その後ミカンが喉にひっかかってしまった時‥‥‥。でも、細い体でよくがんばりました。
誰かがいってくださいました。
「ヤス子ちゃんて、不死鳥みたい・・・・。」
ママもそう思います。何事も三度というけれど、四度も死神をふり切ってきたのだから、もう大丈夫と思っていいですか。もう私たちに心配かけないでくださいね。
それからもうそれ以上大きくならないでね。パパもママも年をとるばかり、ヤッ子ちゃんを抱くことも、少しずつ自信がなくなってきているのです。
この頃のママ、よく口ぐせにいうでしょう?
「ああ、重たい、重たい。」
すると、ヤッ子ちゃんたら
「言っちゃダメ!」
というように、ゲンコツを出して、ママをぶつのよネ。
「あ、またいっちゃった。」
ママだって、いつも後悔しているの。だから、許してね、ヤッ子ちゃん。
でも、ほんとうは「重くてたいへん」なんて、ぜいたくなのネ。ヤッ子ちゃんが入学した頃のことを思えば・・・・。
あの頃のヤッ子ちゃんは、小さくて細くて、今にも折れてしまいそうで、ほんとうに可愛い一年生だったのよ。体重が九キロしかなく、訓練いすにすわらせても、まるでお人形みたいだったの。
それから、一年にやっと一キロくらいずつ増えて、去年だけはいっきに三キロ増えて、今年は十七キロになりました。食べたものが、ようやく血となり、肉となり、体つきも少しは女の子らしくなりました。だから、重たくなったことは、喜んであげなければいけないことなのよね。
ヤッ子ちゃんのびょうき
ヤッ子ちゃん・・・・・。
お医者さんに
「お子さんは水頭症ですよ」
と告げられた時、パパもママも、一瞬なんのことだかわかりませんでした。だって、水頭症なんて病気のことを、聞いたこともなかったんですもの。
頭に水が溜まり、そのために頭が大きくなって脳圧が高まり、その症状は脳性麻痺と同じだという。恐ろしい病気だったのです。
産まれて四日めに熱を出して、ママのおっぱいに少しも吸いついてくれなかったヤッ子ちゃん・・・・。だから、なにかの病気にちがいないとは思っていましたが、まさかそんなに重い病気だったとは・・・・・。
まだ病名がわからないうち、ママだけ先に退院してからも、病院にいるヤッ子ちゃんを見にいくのがこわくて、しばらくの間は、おばあちゃんとパパに行ってもらっていたママでした。病院から帰ってくるおばちゃんの元気のない歩きかたを、遠く窓ごしに見ていたママは、そのたびにおろおろするだけでした。お友だちに
「まるで子供が、子供を産んだみたい」
と言われたくらい、およそ母親らしいところなんて少しもないママだったのです。
「お子さんは水頭症ですよ」
そして、重度過ぎて生まれた病院では手に負えないということで、ヤッ子ちゃんは東京の大きな病院に移りました。でも、そこでも
「九十パーセント助からないと思って覚悟してください」
といわれて、本当に悲しくなりました。ママの念願の女の子だったのに・・・・・。神様を恨みました。
だから、どうせ助からないものならと、もうほとんど諦めて、なまじ情がわいたらよけい悲しくなるからと、面会日だって顔も見ないで帰ってきたり、パパも写真をとることを禁じていたほどだったのです。
入院五ヶ月め、突然、病院から呼び出しをうけた時も、
“ああ、きっともうおしまいなのよ”
と、しょんぼり出かけたものでした。
でも、
「もう、退院してもいいのですよ」
と、いわれた時のママの驚き・・・・・。
何十日ぶりに見るヤッ子ちゃんは、さすがに病名どうり頭は大きかったけれど、まあるい顔した可愛らしい赤ちゃんになっていました。
パパは手ばなしの喜びようでした。が、ママは正直いって困ったなという思いでいっぱいでした。“子供が子供を産んだ”みたいなママは、明日からのことを考えると、こわくてたまらなかったの。
ヤッ子ちゃん・・・・・、でも安心してね。
ママはちゃんとヤッ子ちゃんを抱いて歩きだしました。もう小さい頃のことは、遠くなって写真を見なければ思い出せないけれど、それだけ夢中になってヤッ子ちゃんを育ててきたということかしら。
親子三人の駒田家が、その後二回引越しをしたのを、ヤッ子ちゃんは覚えてる? かかってる病院に近いところ、便利なところにと、今の家に越してきたのは八年前の秋、ヤッ子ちゃんが四歳の時でしたね。
でも、越してきたのはいいけれど、一番困ったのが、近所とのおつきあい。見る人、来る人、みんな好奇心まるだしで見るでしょ?その度に、いちいち説明したけれど、
「ヤッ子ちゃんだって、好きでそうなったのではないのよ」
と、そういってやりたかったものよ。
ほんと、まわりの誰もがヤッ子ちゃんのことを理解して、誰もが気にしなくなるまでには、ずいぶん時間がかかるものなのね。
二度めに越したばかりの頃も、みんなの目が気になって、しぜんに母子二人だけで家に閉じこもっていることが多かったみたいです。そんな時、ママは目が悪くなって、お医者さん通いを始めました。
一週間たっても、二週間たっても治らず、こんどはひどい頭痛におそわれるようになりました。それも一ヶ月たってもおさまらず、会社から帰ってきたパパに泣きついては、困らせました。
ヤッ子ちゃん、ほんとに不安だったのよ。
“もし、ママが悪い病気になって死んでしまったら、いったい誰がヤッ子ちゃんのことをみてくれるだろう。”
“いっそのこと、私が死ぬ時は、この子もいっしょに連れていったほうがいいのではないかしら。”
真剣に悩み、苦しみました。今思うと、きっとノイローゼだったのです。
「一・二ヶ月ほど、田舎にいってこいよ」
パパのすすめで、ヤッ子ちゃんと二人、おじいちゃんとおばあちゃんがいる福島に帰りました。
懐かしいお友だちは、みんな元気で健康そのものといった子供に恵まれて幸せそうでした。どうして自分だけがこんなに不幸なのだろう、医者通いの行き帰りに思いました。ママの故郷なのに、まるで縁がない土地に思えるのでした。
それでも、ママの病気は一と月ほどでよくなりました。いいお医者さんだったからでしょう。それにもまして、澄み切った空気の中でのんびり過ごしたこと、そしてしばらくぶりに娘として、ママの両親に思い切り甘えられたことが、いい結果になったのでしょうね。
悲しいことは・・・・・
ヤッ子ちゃん・・・・・。
ところで、福島の田舎のことで、ひとつだけ悲しい思いを抱いていることがあるのです。
おじいちゃんのことです。おじいちゃんもおばあちゃんも、人のいいのはこの上もありません。ヤッ子ちゃんが赤ちゃんの頃は、娘が孫を連れて帰ってきたと、喜んで出迎えてくれたおじいちゃんでした。
でも、ヤッ子ちゃんが少しずつ大きくなりかけた二歳頃から、他人の目をとても気にするようになりました。近所の人に
「横浜の孫はもう歩くかい?」
「おしゃべりして可愛いだろうね」
などと聞かれるたびに、返事に困っていたようです。
昔は、障害のある子が生まれることは、何かのたたりがあるみたいに、とても悪いこと、恥ずかしいこととされてきたのです。だから、ひたすらに隠しに隠して育てたということで、その古い因習の名残りがおじいちゃんの心にも住んでいたということでしょうか。
おじいちゃんがヤッ子ちゃんを抱いて、みんなでコタツでお茶を飲んだりしている時、たまたま近所の誰かが「ごめんください」と声をかけるとたん、おじいちゃんは
「ほら、○○さんがやってきた。はやく、ヤッ子を向こうへ・・・・」
と、そわそわするのです。
あわててママもいっしょにとなりの部屋に身を隠して
「どうして私たちが隠れなきゃいけないの。ママ、バカね」
と、ヤッ子ちゃんに謝ったことが何度あったことか・・・・・。
とはいいながら、私たちのことばかり案じていたおじいちゃん・・・・。
「恭子と二人、一生幸せな思いが出来んと思うと、お前たちがふびんでしかたがなくて・・・・」
そんなおじいちゃんに、ママは何度もいいました。
「そんなことないわよ。ヤッ子がいるから幸せよ。」
「いいのよ、私はこれで・・・・。幸せの感じかたなんて、ひとりひとり違うんだから・・・・」
ヤッ子ちゃん。ママが病気で帰っていた時、自分を不幸だと感じたのは、そんなことがあったからかもしれないのネ。
そのおじいちゃんも、今はこの世の人ではありません。あの頃、もっとよく話しあって、こういう子がいるということを、素直に世間に知ってもらったほうが、おじいちゃんもママもどんなに気が楽だったかと、後悔しています。
でも、ヤッ子ちゃん。そんなおじいちゃんだけど、一番気になって、一番可愛がってたのはヤッ子だったのよ。
今は福島へ行っても、隠れたりはしません。誰が訪ねてきても、堂々とあなたのことを見てもらえるママになりました。
ママは、あなたが学校に通うようになってから、積極的に表へ連れ出すことが多くなりました。もともと“出好き”のパパとママですから、その頃からひんぱんに散歩に行ったり、デパートへ行ったり、休みがとれると箱根へ泊まりに出かけたり、人前にヤッ子ちゃんを連れ出すようになったのです。
それにしても、ヤッ子ちゃんが生まれた頃にくらべると、障害を持っている人やお年寄りに、とても住みやすい世の中になったと思います。
そして今年は国際障害者年・・・・・。
“だからといって、ラジオやテレビの番組等で、お祭り騒ぎをするんはどうか・・・。 これまで知らん顔をしておいて・・・・”
という声もあるようです。でも、ママは大賛成。心身の不自由な障害者やおとしよりには、自分の方から世の中の人びとに知ってもらう機会がなかなかないからです。
だから、いい意味での宣伝になるなら、思い切ったとりあげかたをされたって結構。よく知ってもらうことで、はじめは特別な目で見ていた人も、少しずつ慣れてきて、いつかは声をかけあうようになって、助け合いの輪も大きく広がっていくことでしょう。
まだまだ世の中には、ママのおじいちゃんみたいな人がたくさんいるのではないかしら。そういう人たちに目を開いてもらうためにも、この「障害者年」をきっかけに、わたしたち自身もひと任せにしないで働きかけていかなければ・・・・・、とママも思うのです。
ママとよんでくれて
ところでヤッ子ちゃん・・・・・。
危ない目に何度もあったけれど、こんなに大きく元気になったのは、小学校へあげたからだと思います。
もともと、そんな気は少しもないパパとママでした。障害児というのは、一生死ぬまで親のそばにおいておくものと、決めてかかっていたのですもの。
そのヤッ子ちゃんに、思いもかけぬ入学の知らせでした。
「パパ、訪問学級に、面接にきてほしいって・・・・」
「行くことはないよ、ママ。ヤッ子はうちでのんびりさせてやればいいんだよ」
「・・・・・そうね。まるで小さなお人形に、なにがわかるかしら」
「そうだよ、よせ、よせ」
でも、せっかくの誘いだから、行くだけはと、ママは思い直しました。
面接に行った訪問学級は、プレハブ造りの、陽の当たらない、小さなたたみ敷きの教室でした。
「あ、駒田ヤス子ちゃんですね」
「さあ、ヤス子ちゃん、いらっしゃい」
ママは一瞬どぎまぎしました。
迎えてくださった先生方の声の大きさ、笑顔の明るさ・・・・・。初めての私たちに、なんという人なつっこさだったでしょう。
あの時、ヤッ子ちゃんにもわかったのね、ほんとうにすてきなところだって・・・・。
そして、面接が終わっても、あまりに居心地がいいのか、帰るのをいやがって、先生やママを困らせましたね。訪ねた先で、帰りたくないという“意思表示”をしたのは、これが最初でした。これも嬉しい驚きだったのよ。
パパの反対を押し切って、入学させたものの、しばらくは「一体何を教えてくださるんですか」という気持ちは、抜けませんでした。
でも、いっしょに通いだしてから、少しずつわかってきました。
勉強だけが教育ではないということを・・・・・。
文字や数がわからなくても、ヤッ子ちゃんたち障害児にだってできることがあること、そしてやらなければならないことがたくさんあるということを・・・・。
障害の程度が違うように、障害児ひとりひとりのできることも違います。その可能性をひきだして、根気よく指導してくださる先生方の努力、その大変さもわかってきました。
もちろん、訪問学級への登校は、ヤッ子ちゃんにも、ママにとっても、一番楽しくて、一番大事なことになりました。
パパまでが、少々の風邪ぐらいでは
「さあ、行った、行った。学校に行けば治っちまうよ」
と、けしかけるようになりました。学校の行事がある時は、自分からすすんで顔を出すようにもなりました。
ヤッ子ちゃんが、パパをひっぱりだしたのよ。
ヤッ子ちゃんは、学校へ行きだしてから、次々にいろいろなことが出来るようになりましたね。
中でも、特に大きな進歩は排泄の習慣。
二時間ぐらいの間隔で、トイレで出来るようになったのね。それも、行きたい時には、鼻をつまんで意思表示をしてくれるようにもなりました。時には、失敗したり、そうでもないのに鼻をつまんでママをからかったりすることもあるけれど・・・・。
でも、排泄のときには、自分からお尻をもちあげて介助しやすいようにしてくれるので、ママも大助かり。ヤッ子ちゃんにとっては、それがママへの“お手伝”なのかもしれないわね。
それから・・・・、鉛筆やクレヨンをもって、紙に書くということも覚えたし、ピアノやオルガンを弾く真似をしてポンポンたたいたり・・・・。弱々しかった左の手に、しだいに力がこもってきたように思えるのよ。
また、本を一枚一枚見ることも、食べ物や身のまわりの品物の名前を理解することができるようになったのね。
自分のしてもらいたいこと・・・・、飲みたいもの、食べたいものの要求・・・・、好き嫌いの意思表示・・・・、ヤッ子ちゃんはどんどん進歩していきました。
これも先生方の障害児教育にかける熱意と暖かい指導のたまものです。
そして、もうひとつ忘れてはならないこと・・・・。
ヤッ子ちゃんが四年生の秋、初めて言葉を発してくれたことです。それも、決して有り得ないことだと諦めていたのに
「ママ!」
その嬉しかったことといったら・・・・・・。
それから少したって、「パパ」といえるようになったけれど、家にいるときだって、ママを五回呼ぶ中で、パパにはやっと一回くらい・・・・・。きっと、パパはさみしいと思うよ、ヤッ子ちゃん。
それに、この頃は少し
「ママ!ママ!ママァ・・・・・・」
と連発しすぎますよ。お願いだから、はっきりママに用事がある時だけ呼んでもらいたいなあ。
ヤッ子ちゃん・・・・・。
ごく最近出来るようになったことが、まだありますね。それは、笛を吹くことと、鼻をかむこと。
鼻をフンとさせてかむことを覚えさせたのは、ママ・・・・・。
これも特訓で、ヤッ子ちゃんに笛をもたせて教えたのはパパ・・・・。パパはしばらくの間、得意満面でしたね。
「笛はおれが教えたんだ。
おれが教えたんだからね。オッホン」
でも、パパったら、もっとひどいことも教えていますね。
鼻クソをほじらせて
「ママにつけちゃえ!」
げんこつを作らせて
「ママをぶっちゃえ!」
ほんとに悪いパパ・・・・・。パパはヤッ子ちゃんと味方どうしだと思っているところがあるらしいけど、なんといったって、ヤッ子ちゃんの食事を作ったり、洗たくをしたりするのはママなんだから、そこのところは忘れないでね、ヤッ子ちゃん!
それはともかく、笛を吹くことも、鼻をかむことも、息を吸ったり、吐いたりの動作だから、これはうまくすると上手に発声することにつながるのではないかと、内心大いに期待しているのよ。本当にそうなるといいネ。
ヤッ子ちゃんも中学生になったんだから、「言葉を覚えること」を目標にしていこうネ。自分の思っていること、考えていることが他人に伝わるなんて、すばらしいことだと思わない?
そして、ママだって、ヤッ子ちゃんの思っていることを知りたいんだ。将来、片言でもいいから話すことができるようになったら、ぜひ聞いてみたいことがあるんだ。
「ね、パパとママの子供に生まれて、どう?幸せ?」
その日が楽しみです。
こんなママでよかったら・・・・
ヤッ子ちゃん・・・・。
そんな体に産んでしまって、本当にごめんネ。
でも、障害児だったからこそ、今の分教室の友だちがいて、ママにも苦労をわかちあうすてきなお友だちができて、しかもなによりも、熱心で心のやさしい先生方にめぐりあえたんですもの。ほんとうに幸せだと思うの。
そして、ママは、あなたがママの娘であることに感謝しているのです。だいいち、健康だったら、いつまでもそばにいてくれなくて、やがて別々の人生を歩まねばならないでしょ?
いつまでも一緒に人生を歩むことができると思うと、有り難いと思うのよ。
ヤッ子ちゃんは、いつもママのそばにある宝物。何よりもママの生きがいなのだから、ママから離れないでいてください。ママもヤッ子ちゃんを守ってあげるから・・・・・。
ヤッ子ちゃんと生きてきた十二年という歳月・・・・・。
ママは楽天家で、忘れっぽい性質だから、苦しいことはもうあまり覚えていないみたいです。思いでは楽しいことだけを覚えていればいいのよネ。
だから、ママは、いい思い出だけを、固形スープのように凝縮して、頭の中にしまっておきます。そして、また何年かたったら、ヤッ子ちゃんに話してあげましょう。
ヤッ子ちゃん・・・・・。
こんなママとあなたでした。
よかったら、これからも長生きをしておつきあいください。よろしくネ。
●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)