山口さん家のマサヒト君はちょっとした音で全身をピーンとさせる異緊張型の脳性麻痺。高い声、ドアのバタン、せきやクシャミ、すべて誠仁君をピーンとさせてしまいます。ですから授業も最初は静かに。おかげで先生の声も、動作もしとやかになりました。
こんな誠仁君ですからさぞやお母さんもビクビクだろうと思っていたら、世の中の音に慣れさせなくては、と度胸のいいこと。若い時からさまざまな苦労の中をくぐり抜けてきた精神は、ちっとやそっとのことではビクつかないのでしょう。ちなみに誠仁君が一番リラックスするのがパパの膝の中。これもお母さんの気持ちを安定させているのでしょう。

だから、幸せなのです
わが子よ。
オギャーという産声をどこかに忘れて、仮死の状態でこの世に誕生したわが子よ。
今こそ、どうしてあなたの父となり、母となったかを話しておきましょう。あなたには、とても厳しい人生を歩ませることになったけれど、そんなあなたをかかえながらそれでも、お母さんは幸せだということを・・・・・。
あなたの大好きなお父さんが、どんな生い立ちだったか、知っているかしら。
大きな声で元気良く生まれてきたのだけれど、3ヶ月後、そのお父さん、つまりあなたのおじいさんは、急に体の具合が悪くなって亡くなってしまったの。だから、その顔もぜんぜん知らず、おじさんに育てられて、とても淋しかったと話してくれました。
それが、私が勤めている会社に私より3ヶ月後に入社してきた、無表情な男性だったわけなの。
私も、肉親に縁のうすい子供時代をすごしてきました。7歳の時、父の女性問題で、母と別居生活がはじまり、さらにおばの家で一時くらしたり、その後、私の育ての親となる、母の兄の家へと転々としたのです。
それから、ずっと横浜に住むようになって、私が小学校6年生の頃、母が再婚したのでした。
私にとって切り離せない実の父。毎日面倒を見てくださる育ての父。母が再婚したので、お父さんと呼ばなくてはならない義父。
三人三様の父の間にはさまれて、子供心に整理できず、重苦しく、身の置き場もない日々でした。そのうちの誰かでもいい、甘えられるものならと、思わぬものでもありませんでしたが、正直いってどのお父さんも好きになれませんでした。
でも、人の子の親となった今は、どのお父さんにも、すまなかったと思うのです。それぞれに育てていただきながら、好きになれなかったなんて・・・・・。
立場をかえれば、きっと私はかわいげのない女の子にうつったことでしょう。もっと、素直な子だったら・・・・とも思います。3人ともなき人となった今、なんのお礼も、お返しもできないので、よけいすまないと思うのです。
それにしても、母の兄、育てのお父さんは重症の酒乱で、お母さんはいつも近所となりへの後始末に、頭をさげて歩いていたものでした。そして、家じゅうに散らかったこわれものなどを、のろのろと片づけているその人の背中を、私は布団からおずおずと見ていたものです。そして、つくづく、女は哀しいものだと思ったのでした。
母の再婚でいっしょに住むことになった義父は、商店街一という店を持っていました。商売は上々、実に商売の上手な人でしたが、いつの間にか、遊びを覚えてしまったのです。毎日のように、夕方になると、さっさと店をしめてしまい、母にお札をカバンにつめさせ、おかしな場所へぷいとでかけてしまうのです。そして、夜中すぎて、からっぽのカバンをさげて帰ってくるのです。
そのうち、とうとう大きな店も人手に渡ってしまいました。当り前の話です。小さな借家にかわって、下り坂の生活が始まりました。母との仲も険悪でした。
私の学生時代・・・・・、卒業したら、家を出て自活の道を必ずつけようと勉強したものです。結婚しないで生きようとも思いました。小さい時から、みにくい大人の世界を、ぜんぶのぞいてしまったからです。母をはじめ、まわりの女性が、あまりに男性運がないことが、強く心にやきつけられていたからです。母のようになりたくない、そればかりでした。
マサヒト君・・・・・。
あなたのお父さんが、同じ会社に入社してきたことは話しました。無口で無表情な人でしたが、男らしく、私はしだいに惹かれました。いつしか、この人をおいて、私の未来はないと、思うようになりました。口にはださないけれど、その人も同じ気持ちだということがわかっていました。云わないけれども、お互いに、一生の誓いをたてていたのです。
ところが、いざ、結婚の運びになったとき、私はこわい顔をしてことわってしまったのです。なぜだかわかってもらえるでしょう。
いずれ、私も傷つき、ともに傷つくことになると思うと、たとえ、しばらくは幸福であるにせよ、そのあとのことを思うと、とても我慢できなかったのです。そんなふうに思いこむ私だったのです。
それから、3年が経ちました。あなたのお父さんは少しも変わりませんでした。私を待っていてくださったのです。とっくに、私の人生を捨てていたつもりなのに、お父さんは再び私の前にあらわれたのです。3年目のことでした。こんどは、お父さんは、私の前を動きませんでした。
そして、一年半後に生まれたのが誠仁君です。お母さんはほんとうに幸せでした。高年出産を少しも悔やみませんでした。
ロボットの子なんかじゃありません
マサヒト君・・・・・。
あなたの障害について語ることは、お母さん自身を語るより、もっとつらいことです。でも、あなたと生きてきた、あの時、この時、どのように考え、思ったかを、知っておいてほしいのです。
今、ふっと、あなたの生後4ヶ月めのあの日のことを思い出しています。あの日、初めてあなたは私の手から離れ、おばあちゃんの家に預けられました。よんどころない用事で、少し遠くへ行かなければならなかったからです。
その帰りがけ、列車の中で読むつもりで、一冊の本を駅前の本屋さんで求めました。脳に障害をもつ子の母親の手記であるというのに目をひかれました。人の子の母となったばかりの私です。無関心ではいられなかったのです。
車中、その本を読みすすむにつれて、涙があとからあとから湧いて、字もよめなくなり、それかといって顔も上げられなくなってしまいました。その母親には3人の男の子があって、なんとその3人とも障害児だったのです。そして、悪戦苦闘しながら、雄々しく生きていく、その物語は美しいものでした。わが家のことでなくてよかったとも思いました。涙を流しながらも、今の私の幸せをかみしめ味わっていたのです。
そして、誠仁君のことを一刻も早く抱きしめたいと思いました。列車の窓に映る景色は、もう夜。いい子でいてくれただろうかと、しだいに気が気ではなくなりました。
あなたは朝8時前、おばあちゃんの手に移ってからというもの、夜8時すぎに私が帰ってくるまで、泣きどうしに泣いたということでした。おばあちゃんは、だっこしたり。おんぶしたり・・・・、それこそ、何も食べることもできず、おろおろと一日をすごしたのでした。その一日で、おばあちゃんの顔が急に小さくなったような気がしました。
あなたは、お母さんの腕に戻ると、プッツリと泣きやみました。おばあちゃんは、ほっとするやら、急に疲れを感じたのか、腰がぬけたように座りこむ始末。ほんとうにすまないと思ったものでした、誠仁君に対してもね。
眼科医院へあなたをつれていったのは、それから1週間のちのことでした。その朝、目やにが多いのが気になったからです。
女医さんでした。私の顔を見るなり
「お子さん、脳性麻痺でしょう」
なにをいいだすのかと思いました。3ヶ月検診でも異常なしといわれていたのです。目を診てもらいにきたのに、専門外のことを、まるでひとりぎめにきめつけるなんて、あんまりでした。
でも、先生は、ぜひとも出産した病院で診察してもらうようにと、くり返しいうのでした。少し心配になってきました。
2日後に大学病院へ行きました。また女医さんでした。最近の誠仁君の様子を聞かれ、診察をうけました。
「高齢出産障害による、脳性麻痺です」
そんなばかな・・・・・。そんなに簡単にわが子の一生を決定することができますか。
マサヒト君・・・・。
それからお母さんは、お父さんにも仕事を休んでもらって、もう何カ所もの病院を訪ね歩きました。・・・・・やはり、診断は変わりませんでした。でも、そんなはずはないと、お母さんは、また次の病院を探していたのです。
そうして夢中で走り廻ったひと月あまり・・・・・、なぜだかぼんやり立ち止まってしまいました。
”もう目をふさいでも、自分をごまかしてもだめ。やっぱり、これは、まぎれもないことなのよ“
そんな心の中の声が耳にひびいたような気がしました。と、ふと、あの車中で読んだ本のことを思い出しました。
ほんとうに皮肉なものです。あの時の私は妻として、母として、もっとも幸せだったのです。それにしても、惜しみなくそそいだあの涙はいったい何だったのでしょう。今は、その母親の姿も遠く小さくなっているのでした。そして他人ごとどころではなく、同じことがわが身にふりかかっているのに、心は氷のように凍りついて、泣くことも忘れているのでした。
ついに、誠仁君のために、障害者1級手帳ができました。しばらく、手にとることが、出来ませんでした。
その後のあなたは、1年1年と、体が硬直する発作がひどくなり、ことに足はいつもつっぱったままのような状態でした。どうなだめたり、マッサージしたりしても、なかなか緊張がゆるまないのです。そんなあなたを外へ連れだすのは、少々つらいことでした。もちろん、お母さんはくじけたりしませんでしたが・・・・・。
こんなこともありました。わが家では銭湯へ行っていますが、お風呂やさんで、手足のつっぱったあなたから、苦労して服を脱がせていると
「おばさん、ロボットをお風呂にいれるの?」
と、小さな子どもたちが寄ってくるのです。正直に思うままを口にしたのでしょう。中には、
「オバケみたいな子を、どうしておふろに入れるの?ね、どうして?」
と、何回も問いかけてくる子もありました。わけを話してやっても、通じる相手ではなく、どうしても納得できないらしいのです。そして、とっくにあがって服を着ているのに、あなたを抱いた私について中に入って、じっと観察するのです。無邪気な子どもたちとはいえ、心中複雑、よけいのぼせてしまうのでした。
今では、そんな子どもたちも大きくなって、顔を合わせると、「おばさん」と、温かく声をかけてくれるようになりました。ほんとうに嬉しく、あなたを世間から隠さなくてよかったと思っています。
お母さんの座る席もできた
マサヒト君・・・・・。
あなたが学齢期に達した時、どうせ義務教育なんか縁がないと、思いこんでいた私たちでした。ところが、教育委員会から相談に来るよう連絡があって、中村分教室に入学と決定。といって、ひとりで通学できるわけはなく、正直いって、ただ忙しさがますだけだと思いました。だいいち、小さなもの音にもはじかれたように緊張するあなたにとって、にぎやかな集団の中にいるより、ひとり静かにわが家で寝ている方が、どんなに楽なことか・・・・・。無理に学校へあげても、はたしてプラスになるものかどうか・・・・・。
「しかし、義務教育ですから・・・・・」
「だから、どうしても行かなくてはならないのですか」
私は、これまで置き去りにさせたままだった重度障害児たちの成長の場が、多くの人たちの永い努力の結果、ようやく義務教育だという形で実現したということに、まだ気がつかなかったのです。ほんとうにすばらしいことなのに、家で寝ていればいいなんて、誠仁君、お母さんもいい気なものです。
でも、そういうことなら通学させてみたらどうだ、というお父さん。私も一歩ふみだしてみることにしました。
そして晴の入学式。あなたはお父さんに抱かれ、お母さんはおむつ袋をもってでかけたことでした。
すでに、あなたの”異緊張“のことはちゃんとわかっていたらしく、先生方もドアの開け閉めにも気をつかい、お話も小さな声でなさるのです。
その思いやりと、心づかい・・・・・。そして、何日か通ううち、分教室の”義務教育“とはどんなものかわかってきて、ほんとうに嬉しくなりました。
教室には教科書はありません。子どもたちひとりひとりの、かぼそい才能の芽をみつけ、それを根気よく体に感じさせ、脳の活動に結びつけていくというのが、ここでのやり方だと知りました。それが障害児に対する特殊な教育方法だとしても、子どもたちと溶けあって、親も及ばぬ接し方をしてくださる先生方の姿に、頭がさがるばかりです。
学校へ行くのが楽しくなったのは誠仁君ばかりではありません。お母さんにも、ちゃんとお部屋と座る席があるからです。母親学級です。
そこでは、自分だけでは気づかなかったいろいろなことを、学ぶことができました。たとえば、障害児の母親と家庭の問題です。手をとられるあまり、その子の母としてだけ日々を過ごし主人に対して妻という立場を忘れていると、それは家庭の破滅につながる、といったことなど。先生の話や、お母さん方との話しあいには、改めて考えさせられることばかり。お母さんも、人間として少しずつ成長していくような気がするのです。
ところで、誠仁君もこの春から小学3年生。入学当初の心配をはねかえすように、大きく成長してくれました。このごろは、もの音にもあまりびくつかず、ほんとうに男の子らしくなったと思います。そのうえ、給食も私からでなく、先生の介助で上手にぜんぶ食べられるようになりました。それも、ぜんぶを40分ほどで食べることができるなんて・・・・・。
そして、「満腹、満腹」といった表情を先生に向けているのを見ると、つい私の顔もゆるんでしまいます。
マサヒト君・・・・・。
そんなあなたの成長ぶりは、お父さんにとっても、すごく嬉しいのですよ。
登校日の夜。お父さんはあなたに夕食をさせながら、必ず学校での出来事をたずねるでしょう?。(あれは、先生が記入された連絡帳を、お父さんに見せながら、事前に話しておくのだけれど、今はあなたにはないしょ・・・。)
そして、きょうはネンドで何をつくったのか、給食は何だったのか、「シュウマイ?それとも、マー君の大好きなリンゴがあったのかな?」などと、あなたが声を出すまで話しかけますね。そんなことを続けているうち、今では、お父さんが話しかけると、表情いっぱいに
「ゴヨゴヨ、ゴヨゴヨ・・・・・」
と、上手に言葉のような声を出して、また質問を待っている様子・・・・・。男と男の語りあいなのでしょうか。お母さんの私にも見せない表情と声なので、ちょっぴりやけます。でも、すごい成長!
マサヒト君
ほんとうに、お母さんは幸せなのです。そして、お父さんも、いつまでも命の通じあう夫婦と親子であるようにと、懸命に生きてくださっているのです。いつかあなたが、”ぼくのおやじ像“を語れるようになった時、お母さんはお父さんのことをたくさんたくさん教えてあげますよ。
そんなお父さんとお母さんを、これからもよろしくね。
とにかく、元気で、堂々と生きてください。ゲンマ!マサヒト君。
●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)